『春陽会誕生100年 それぞれの闘い』展覧会記録(その1)


碧南市藤井達吉現代美術館にて、七月五日観覧。

春陽会って何だろう?

帝国美術院、二科会に次いで第三の洋画団体として成立した「春陽会」ということなのですが、よくわかりません。
なので、先に、個人的に勝手に持ってる印象をざっくりまとめちゃいます。

そもそもの院展がアカデミックというか権威というか、本道というかなんというかで、それに対抗してできた二科会は、革新的というか、かなりPOPな団体って印象。最近では芸能人とかも多いし。
で、第三の団体としての春陽会。どんな人がいるんだろう?

岸田劉生はもちろん知ってますが、彼の重心は草土社の方にありそう。萬鉄五郎や梅原龍三郎は、メンバーと言っても、所属団体と自分の個性は別物、って感じ。
他のメンバーは不勉強でよく知らない。
自分が一番親しみがあるのは山本鼎。素直で実直な作風で、教育者としても優れていた方、ということで、春陽会もそんな団体なんじゃないかと、勝手に予想。
個性を大切にするけれど、それは、二科会のように権威に対する革新とかではない。
個性は、日々の生活の中から自然に現れてくるものだ、個性を大切にすると言うのは、一人一人がそれぞれの人生を生きることを大切にするということなんだ、そんな感じかと。

自分の草土社のイメージもそんな感じ。ただ草土社はもっと、その名の通りに泥臭いというか、個性を発揮するにしても、地に足のついた態度を崩しちゃダメ、っていう。

さて、どこまで当たっているかしら?

山本鼎

残念ながらその山本鼎の作品は、『独鈷山麓秋意』だけでした。でも、しっかり山本鼎している作品。雲の上と下で空の色がガラリと変わる描写で、青い空は画面の外へ突き抜ける感じ、緑がかった黒々とした山は、光のあたるところだけ切り落とされたように赤いし、干された稲わらは、陽射しに光る側と、影になって薄青くそれを透かしている影の側に、クッキリと別れて、刈田は乾ききった土が黄色く光って、カサカサと細かなホコリが陽射しに舞っているかのようで。

クッキリと色を分ける描写は、後期印象派からナビに片足つっこんでるかしら。この大胆な色分けが、ゆくゆくは片岡球子に繋がっていくのかしら。などと。

初期の日本の洋画は、印象派の輸入から始まるんだけれど、この山本鼎をはじめ、倉田白羊や足立源一郎とか、印象派の次の段階に入ってる。それが後期印象派を取り入れる事になるのか、日本画の要素を取り入れるのか、等々、まさにこの時期の作家の試行錯誤なわけで。

梅原龍三郎

などと、聞いた風なことを考えていたら、梅原龍三郎にぶん殴られるという。
圧倒的な筆致の迫力。でも、筆圧を上回る理性でコントロールされている恐ろしさ。『裸婦図』の肉の扱いが、もう残酷なほど生々しい。ヘソの上の腹の肉が、ムニッと上向きに盛り上がってしわになってるとか、組んで上になってる右足の太ももの肉が寄せられて段になってるトコとか。
人間の腕は、円筒ではなくていささか三角柱になっているんだけれど、その形態を、勢いよく筆を振るって削り出すように明示した左腕、右腕は椅子のひじ掛けに乗せられているんだけれど、まっすぐ画面手前に向いている奥行きを、上腕、前腕、手背を三色に塗り分けるだけで、表現しきっている。

裸婦像だけでなく、『カンヌ』や『榛名湖』といった風景ですら、筆の一撃、一閃に、とんでもない決意というか、気迫というか、自負のようなものがこもっていて、圧倒されるしかない。

岸田劉生

どっちかというと、岸田劉生はやっぱり、春陽会というより草土社の人という感じなんだけど、とにかく今回の展示では、トップクラスの有名人なので、展示数も多い。もちろん『麗子像』もあります。あんまり怖くないヤツだった。
テカテカの顔に、しっとり濡れたみたいな黒髪、口の周りの産毛が濃くって髭みたい。それはそうと、モデルが地元碧南にゆかりのある方だという『近藤医学博士之像』が、全く同じ構図なのが、なんかたまらん。近藤博士、いい年のオッサンなのに、頭と体の比率が麗子と同じって。イヤ麗子より頭がデカいんだが。リアリズムどこに行った。『少年肖像(村上巌氏十七歳)』も、やっぱり体が小さくて頭がデカい。
言い訳みたいに『鯰坊主』が展示されてたんですが、それは理由にならんだろうと。
この辺の展示は、リアリズムよりも、ちょっと歪んだあたりが、春陽会に影響を与えたということを示しているのかな。
確かに、このデロリの雰囲気の方が、後々、村山槐多あたりに繋がっていくようにも思われます。

小林徳三郎、南城一夫、三岸節子

小林徳三郎『鰯』、南城一夫『鯛の静物』、三岸節子『自画像』。
一枚づつだけど強く印象に残った作品たち。

『鰯』、籠に放り込まれた魚の、とぼけた表情ももちろん良かったんだけれど、ごく単純な筆の運びで、ウロコのギラリと艶めかしく湿った感じが、リアリズムとは違う生々しさ。籠目のザルも、対して陰影がついてるわけでもないのに、しっかり立体的なのは、基本のデッサンがよほど上手いのだろうなあと。それでも、そんな写実性なんかクソくらえとばかりに、パーッと画面いっぱいに効果線が撒いてあって、ここに鰯があるぞーって漫画チックな表現。鰯がとてつもなく可愛らしく見える。

『鯛の静物』は、やっぱり鯛の顔がとんでもなく可愛らしい。クリクリ丸い目も、ポカンと開いた口も、とても魚には見えない。まるで人間の子供。エラ蓋なんて、プクッと膨らんだホッペみたい。皿も手拭いも立体感を廃しているのは、やっぱりキュビズムかもしれないけれど、それがメインではなくて、あくまで鯛のキャラクターを見せるための手段。千九百二十七年の作品なので、既に技法として消化されていると考えていいのかしら。横のネギや菜っ葉の束も、擬人化されているようで、ニンジンが手のように、鯛を抱え込もうとするみたいに差し伸べられている。卓上であることを表現するのに、ソラマメやキノコをバラバラとばらまいてあるのも、なかなかの発想。

『自画像』は、三岸節子、二十歳そこそこの作。小品なのにとんでもない迫力。グイと上目遣いの強い意志のこもった瞳の黒さ、わずかに歪むほどにきつく結ばれた唇の赤さ。すでに結婚し、胎に命を孕んで、しかし画業への野心も燃やしているという、生命力と意志がギュッと詰まったような瑞々しくも妖しい女性の姿。こういう女性の魅力を、もっと早く理解したかった。手遅れだ。悲しい。なんだか切なくなってしまった。もう一度恋がしたいなあ、疲れ果てたオッサンでさえ、そんな気持ちにさせるとは、なんて恐ろしい作品でしょうか。

長くなったので(その2)に続く。
七月七日追記。(その2)書きました。

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