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宇宙飛行士選抜試験を振り返って

あけましておめでとうございます。(遅い)
今回の記事はもっと早く仕上げたかったのですが、出張や仕事で忙殺されるうちに気づけば年明けになってしまいました。というのも、色々と考えさせられる挫折の経験をしまして、今後の自分のためにこの抽象的な気持ちをちゃんと言語化しておこうと思ったわけです。

掲題の通り、今年JAXAが13年ぶりに行っていた宇宙飛行士選抜試験を受験していました。この試験は全部で「書類選抜、第0次選抜、第1次選抜、第2次選抜、第3次(最終)選抜」で構成され、本記事執筆時点(2023年1月下旬)では第2次試験の結果50名から10名へと受験者が絞られ、最終選考が行われているところです。本記事では詳細は割愛するので、詳しくはJAXAの特設ページを参照ください。当の自分は50名にさえ残ることはできず、一つ前の205名から50名まで絞られた第1次選抜であえなく不合格となりました。個人的には、筑波のオフィスまで行って試験の醍醐味を体験するのが目標だったのであと一歩及ばずといった結果でした。こうして幼少期から抱いていた夢は儚く散ったわけで、当初は完全に自己満足のために本記事を書き始めました。しかし筆を走らせるにつれて、「今回の試験に関する事前情報の少なさで自分が苦しんだ分、次回の受験者に対して役に立ってほしい」という思いが強くなり、時系列順で物事と自分の心情をできるだけ忠実に振り返ってみました。また、それを積年の夢が散った無念とともにネットの海に流すことで供養して、僕の中でひとまず区切りをつけたいと思います。

※ お断り : JAXAに対する守秘義務があるのに加え夢の供養が目的なので、記事の内容は全てJAXAの公開情報であり、それ以上の試験内容に関しては記述していません。ご了承ください。

いつから、なぜ目指した

明確にいつから目指し始めたというのはないのですが、テレビに映る青いスーツ姿に小学生の時からぼんやりと憧れを抱いていました。中高生の時に宇宙に興味が出始めてから「宇宙行きてえよな」という想いが再燃し始め、はっきりと意識が変わったのが(ありきたりですが)大学生の時に宇宙兄弟を読んだ時です。南波兄弟に限らず各キャラクターが夢に邁進する姿に当時の自分は甚く共感して、宇宙物理の研究がうまくいかず凹む度に、航空宇宙工学科の図書館にある宇宙兄弟を泣きながら読み漁っては「やっぱ宇宙をやりたい」と自らを鼓舞していました。
とはいえ、宇宙兄弟を読むことで宇宙飛行士への憧れが必ずしも増したわけではなく、「より現実的に考えるようになった」という表現が正しい気がします。その最たる例は51話にて木崎宇宙飛行士が「地球の大きさをサッカーボールだとしたら、爪の先くらいのラインがISSの高さよ」と言う場面。もちろんISSの軌道の高さなど知ってはいましたが、比喩表現というのはなんとも効果的でして、「現代でも『宇宙に行く』っていうのはそんなもんなんだよなぁ」と見事にロマンや憧れといったものが萎んでいく自分がいました。そこで改めて宇宙飛行士業務をちゃんと調べてみて、(少なくとも自分としては)「宇宙に行きたい」だけで目指せる職業ではない、という結論に至ります。このようにして当時抱いていた「盲目的な憧れ」は一旦落ち着くのですが、そこからすぐに最終的な動機付けになるきっかけに巡り合います。

「宇宙兄弟」51話にて木崎宇宙飛行士がISSの軌道高度に関して説明する場面


学部4年時に参加したJAXAのIAC(宇宙国際会議)学生派遣プログラムです。詳細はリンク先を参照してもらいたいですが、そのプログラムの一環で若田宇宙飛行士・野口宇宙飛行士と交流する機会がありました。お二人の気さくな人柄もそうですが、宇宙飛行士といえど生身の人間なんだなという印象が記憶に残っています。そのほかにも会議には各国から宇宙飛行士が参加しており、全世界的に宇宙飛行士は憧れの的であることは周りの反応から明らかでした。自分が研究者としてどんなに成功してもこんなに多くの人に影響は与えられないだろう、ということが嫌というほどわかるわけです。憧れの的になりたいわけではありませんが、かつて路頭に迷っていた自分が宇宙物理学を志して人生が変わったように、次世代が宇宙を通して何かに励むきっかけになるのであれば、それが宇宙飛行士になる価値だと自分は思います。というわけで、この体験をきっかけに宇宙飛行士を再び目指しはじめました。

受験者募集の発表

あれは確か2021年の11月下旬ごろ。JAXAから宇宙飛行士選抜試験の募集要項が発表された時、僕はロサンゼルスにある友人宅でジャグジーを楽しんでいました。スマホの画面からその知らせを知った瞬間、ジャグジーで至福の境地だった体には一瞬にして緊張が走り、鼓動を高鳴らせながらその場で要項を読み尽くしていました。前述したように大学院生の時から受験を決めていても、自分にとっては選抜試験自体が書物で記述されるだけのほぼ絵空事。大して現実味を帯びていない中、噂されていた宇宙飛行士の募集がとうとう現実になったかという気持ちに変わりました。
そして、その直後からtwitterでは続々と強そうな方々が受験に名乗りをあげ、活発に発信を始めていました。優秀な受験者同士がえげつない倍率で競うことになることは頭では分かっていましたが、いざ受験者の面々を見ると夢が少し霞みます。それに加えて

「どんな強い人がいるんだろう?」

というリアル天下一武闘会を思わせるような、武者震いに近いワクワク感も込み上げてきました。13年前の選抜試験時と異なりオンライン申請に変更され、SNSを大きく活用した広報にも時代の流れを感じました。そして、当然抱く疑問は「こういった効果から応募総数はどれくらいになるのだろう?」後にJAXAから4127名と公表されるわけですが、当時は想像するのも恐ろしくあまり考えないようにしていました。こうして自分が受験モードに切り替わりつつある中で、JAXAが発信していた現役宇宙飛行士たちのパネルディスカッションなど、得られるリソースを手当たり次第に調べては来たる試験に向けて気概を高めていました。

書類選抜

必要書類は大きく分けるとエントリーシートと健康診断書の2つ。募集要項を読んだだけでも必要書類の準備がだいぶ重そうで、やはり軽い気持ちで受けられるものではないという印象を受けました。エントリーシートには志望動機や自己アピールなど書くのですが、それぞれ書きたいことが山のようにある中で、簡潔にまとめる能力が問われていたと思います。その中でも個人的に推敲の手間を要したのが「志望動機」と「目指す宇宙飛行士像」。「宇宙に行きたい」という気持ちは文字通り全受験者が抱いている中、ちょうどこの書類作成当時、巷は前澤社長のISS滞在で盛り上がっていました。民間人による宇宙滞在の時代の到来を象徴する出来事でした。前澤社長ほどの資産家になる方が非現実的かもしれませんが、それでも宇宙飛行士でなくてもお金を積めば宇宙に行くことは可能な時代。では、宇宙飛行士を宇宙飛行士たらしめているものはなんなのか、それでも自分が宇宙飛行士になりたい想いはどこから来ているのか再考せざるを得ません。この自問自答した結果をエントリーシートに書いた訳ですが、ここに全て書き並べることはせず、次回の選抜試験に向けて温めておこうと思います。またエントリーシート作成にあたって、貴重な時間を割いて手伝ってくれた友人たちには頭が上がりません。この場を借りてお礼申し上げます。

一方の健康診断書が問題で、当初用意されていた書類が日本語のフォーマットのみ+自分がアメリカ在住だったこともあり、全て英訳しないといけませんでした。医学用語は初めて触れたので、日本語でも全く知らない尿の成分など必死に辞書で調べて一から書類を作り直していたのを覚えています。この英訳に加えて苦しめられたのが、かかりつけ医のテキトーさ。診断書を渡して検査内容を把握してもらっても、最初の血液検査では検査漏れがあり、しまいには検査結果が診断書に記入されておらず再度来院をしてその場で記入してもらうこともありました。血液検査以外にも聴力・視力検査などあるのですが、このかかりつけ医で全てを網羅することはできず、結局3つのクリニックを駆け回ることになります。余談ですがこの時印象的だったのが、試験の事情を話すと担当医が例外なく”Wow, super cool! Best of luck!”と声をかけてくれたことです。自分の経験上、(社交辞令であっても)大袈裟とも思える表現を目にする場面がアメリカでは多くあり、とても良い文化だと思います。
さてデメリットに戻ると、僕の住んでいる地域(おそらくアメリカ全般に言える)では来院予約を取るのに少なくとも2週間、場合によっては数ヶ月ほどかかります。そのため度重なるやり取りによって診断書記入がだいぶ遅れてしまい、当初JAXAが定めた診断書の提出期限に間に合わなくなったのです。奇しくも、日本国内でも新型コロナ蔓延によって同様な状況があったせいで期限が1ヶ月ほど延長され、結果的にどうにか間に合わせることができました。

こうしてエントリーシートと健康診断書を提出し終えたのが3月下旬ごろ。スクリーンに穴が開くほど細部まで確認し、とうとう受験への茨の道が始まる提出ボタンをクリックしようとした時、その指は少し震えていました。他の受験者もそうでしょうが平日夜や休日に申請書類を書き進める生活だったので、ワクワクやドキドキ感よりもようやく肩の荷が1つ降りたという安堵感の方が強かったです。手応えとしては、書類選考は応募基準を満たしているかを確認するだけと高を括っていたので、幸運にも何の問題もない健康診断結果と自分の経歴から判断して「さすがに書類選考は通るかな」という気持ちが正直ありました。それも結果が発表されてから大きく覆ることになるのですが…ともあれ書類提出が一段落して以降、試験のことを頭の片隅に置きながら本業の研究に集中する日々が続きました。

そしてアメリカ東海岸が長い冬を越して春めきだした4月下旬ごろ、書類選抜の結果が返ってきました。大丈夫なはずといくら思い込ませても高鳴る胸の鼓動を抑えられず、「通過」の二文字が目に映ると思わず息が漏れ全身の力が抜けました。それと同時に、この一場面がすでに宇宙兄弟で見たシーンを彷彿とさせ、「自分は選抜試験を受験している」という実感が改めて込み上げてきました。その後知った驚愕の事実が、4127名中約半数の2266名しか書類選抜を通過していないということ。そしてふとtwitterに目をやると、そこには戦々恐々となるタイムラインが広がっており、倍率2倍であることから惜しくも通過に至らなかった方も散見されました。もう一度言いますが、13年ぶりの試験なんです。それに人生を懸けてきた一人一人の背景にある想いや努力を鑑みると、とても平常心で見れるものではありません。特に(宇宙飛行士として選抜されると個人的に思っていた)尊敬する友人らの悲報を知った時には、ショックのあまり精神衛生を保つため数日twitterから離れたほどです。どうやら健康診断書で厳しい判断がなされた(詳しくはこのページへ)ようですが、個々人への評価に関しては推測の域を超えません。ただ間違いなく1つ言えたのは

「こいつはとんでもないサバイバルゲームに参加してしまった」

ということ。そして各選抜段階を通過するという事実が意味する、その”重さ"を理解した気がします。宇宙飛行士が最終的に選抜されるのは2023年3月、向かう1年どんなことが自分を待ち受けているのだろう?そんな不安とワクワクが入り混じったような感情を胸に、僕は第0次試験へと駒を進めました。

第0次試験

第0次選抜は主に筆記試験で、英語試験とその合格者に対して行われるSTEM等の試験+エントリーシートの審査により構成されます。英語試験に関しては、日頃から英語環境下で仕事をしているおかげでそこまで対策しなくても対応はできるかと思ってはいました。ただ前回13年前の試験での出題形式は知られていたため、サンプルテストを数回受けてテスト形式に慣れるようにしました。募集要項上では分散またはオンライン実施とありましたが、蓋を開けてみると全面オンラインで実施となりました。(詳しくはこちら)僕のような海外受験勢からすると受験場所で差が出ないかが最大の懸念要素だったので、これは大変助かりました。そのおかげで試験本番は自宅の作業部屋からリラックスして望むことができました。とはいえど、主観的な手応えや下馬評からは全く予想がつかないことは前回の書類選抜結果から学んだばかり。「もしかしたら…」という一抹の不安を頭の片隅に残したまま結果発表の日を待つことになります。

その一方で、当初から僕の意識はその後に予定されていたSTEMなどの筆記試験に向けられていて、テスト対策自体はエントリーシートの提出前から始めていました。前回試験や募集要項の情報から国家公務員総合職採用試験に相当するレベルであることはわかっていたので、日本の友人を通して対策本を国際郵送してもらうなどして、周りからの恩を受けながら準備を進めました。(ちなみに探せば電子書籍があることを後から知り深く後悔しました。)今思い返せば、この時期が一番精神的にきつかったと感じています。研究室のボスにだけ受験していることを伝えており、”Nothing can stop you from going up to space if you become an astronaut.”と温かい言葉をいただいたのですが、指導している学生などはそんな事情など知る由もありません。なので平常運転で仕事を回しながら、昼食中に講義ビデオを見て、夜にはSTEM対策、寝る直前に社会・人文科学系の暗記科目を詰め込むという生活の繰り返し。数理的処理を日常的に仕事で行なっている分STEM教科の負担は比較的軽かったものの、土日の休みなど関係なくそこまで興味のない勉強にも勤しむその感覚は、大学・大学院受験時のそれを彷彿とさせ懐古的な気分になりました。「もう二度と受験勉強はしたくない」と心に決めても、いざ夢を追いかけ始めると割とできてしまうもので、心の奥底に忘れ去られていた受験スイッチはまだ死んではいなかったんです。そして、当初思っていたよりも宇宙飛行士になりたがっている自分がいることに気づきました。

この禁欲的な生活に嫌気がさしてきた5月下旬、とうとう英語試験の結果が返ってきました。結果は……通過。「もし英語試験に落ちていたら今の試験対策が無駄になる」という不安が上述のストレスにさらに拍車をかけていたのですが、もはや虚無感を避けるため落ちるシナリオを考えないようにしていました。だからこそ通過がわかった時の安堵感は尋常ではなく、これはある意味精神的に危ない綱渡りで、書類選抜の結果で学んだ「どんな結果でも受け入れる覚悟」を持っておけばもっと情緒は安定したんだと思います。宇宙飛行士の資質という意味でも、結果発表でいちいち一喜一憂せず次の試験準備を虎視眈々と進めるべきで、この時期から選抜試験に関してはSNSと距離を取るように努めました。

何はともあれ、英語試験の結果発表は中だるみした自分への良い刺激で、もう1段階ギアを上げて勉強に取り組む勢いづけになりました。統計を見てみると、英語試験の合格者は1407名。とうとう応募総数の三分の一まで絞られたこともあり、キツイ時のストレス発散という狙いも兼ねて、生き残っている受験者の友人とのやりとりをこの段階から本格的に始めました。そこでたびたび話に上がったのが「こんな筆記試験対策をすることが宇宙飛行士の本質なのか?」という問い。僕も考えることが度々あり、本質ではないにせよやはり大事な資質の一つだと思っています。一度選抜されてしまうと、今までのキャリアを捨てて一から勉強をし直す下積み期間に入るわけですが、この歳になって久々に行う受験勉強はそれをイメージするのにとても良い材料でした。

英語試験の結果発表からすぐ、STEM等の試験も同様に全面オンラインで行われることが発表されました。やはり日本との時差が大問題で、僕の拠点であるアメリカ東海岸だと試験を深夜に受けないといけませんでしたが、ここで奇跡的な吉報が届きます。試験日の週にちょうどロサンゼルスで開かれるワークショップに参加できることになったのです。実質タダで、かつ完璧なタイミングで西海岸に移動できる奇跡を感じました。ただワークショップ期間中が地獄で、夜は参加者がホテルのプールサイドでパーティーをしている中1人抜け出して、自室で暗記科目の復習。もちろんこんな直前の対策が結果につながる可能性は低いのですが、「これをサボって落ちたら一生後悔する」という自分の中のけじめをただつけたい一心でした。

そして迎えた試験当日、大学入試以来の緊張感の中ひたすら精神統一をしていました。かなり集中していたのでテスト受験中のことはほとんど覚えていないのですが、小論文が一番楽しく回答できた記憶が残っています。全試験が終了したのが確か深夜1時くらいだったこともあり、心身ともに疲労困憊でした。とにかくやり切った達成感で清々しい気持ちに水を差したのが、画面遷移の不具合と電卓使用に関する不手際。僕自身の結果にあまり影響はなかったのですが、全受験者が人生をかけた試験だからこそ、とてつもない不安に駆られた人がいたことは想像に易いです。13年ぶりで初のオンライン試験の試みであったこと+試験自体を外注していたことなど複合的な原因があるのでしょうが、ロケットの打ち上げ失敗時と同じく、次回に向けた原因究明と再発の防止に努めてもらいたいと思います。また、これらのトラブルによって事前の申請とは別に追試験を希望制で受けられることになりましたが、前述のように個人的には影響がなかったのと、あまりの疲労感にもう一度受ける気には到底なれなかったので本試験で終わりにしました。

試験後の余韻に浸りながら久々にtwitterに戻ってみると、やはり試験関連のツイートが多く見られてSTEM試験で差が出たようでした。特にSTEMの問題慣れしていない受験者をふるいにかけていたように思います。とはいえ肝心なのは通過倍率で、合格者数はおよそ500人と個人的に当初見積もっていました。大失敗せずSTEMの取るべきところは取れたくらいの手応えでしたが、それ以上の倍率だとかなり厳しい戦いになると見込んでいました。必要以上皮算用をしないようにするためにも、停滞していた本業の研究活動に精を出して忙しさの中に身を置きながら結果を待つことにしました。

第1次試験

こうして第0次選抜を終えてから約1ヶ月が経ち、どんなに研究中心の生活になってもやはり結果発表を考えてソワソワする日々が続きました。そんな中、昼食を食べながらNetflixを見ている時に第0次試験の結果通知がスマホに届きました。直近数ヶ月のリソースを割いた試験であり帰国の予定にも大きく影響を与える結果を前に、通知を見てからパソコンに移動する余裕もなく、小さな画面で確認ページに飛びこむ。目に映ってきた文字は「通過」の二文字。次の瞬間には、僕の叫び声がルームシェアの家中に木霊していました。そしてふと外を見ると、日々の忙しさにかまけて気づかなかった初夏の爽やかな青空が広がっている、そんな日でした。

高ぶった気持ちがようやく落ち着き始めた頃、やはり気になるのは受験者仲間の結果。恐る恐る聞いてみると悲報に続く悲報で、現実の厳しさを突きつけられました。当時はまだ全合格者数を知らずとも、Twitterでの結果報告を見てもかなり厳しい倍率で選考が行われたことは明らかでした。後に205名が通過したことを知るのですが、そんな倍率だと自分は通らないと予想していたので通過した実感がほとんどなく、後日受け取った第1次選抜に関する多数のメールによって少しずつ現実味が湧いてきたのです。書類選抜通過の時のようなワクワク感はほとんどなく、すでに4200名ほどが脱落している事実の重さと、残った205名の中に友人はもういない孤独感を噛み締めながら、第1次選抜を兼ねた一時帰国のために日本に向かうことになります。

第1次選抜は、一次医学検査、医学特性検査、プレゼンテーション試験、資質特性検査、運用技量試験の5つで構成されます。医学検査は書類選抜時よりも厳しめの健康診断という予想は立つものの、第0次試験の結果通知直後でさえ他の試験の詳細はほとんど知らされていませんでした。とは言っても、「表現力」「リーダー/フォロワーシップ」「マルチタスク能力」などの特性が当然問われるはずなので、それらに基づいてできる限りの準備をするだけです。具体的には、練習用の題目でプレゼンテーションを作成したり、マルチタスキングゲームを試しにやってみたりと。また、第0次試験通過者と交流をする機会にも恵まれ、有志で模擬グループワークをしたこともありました。元々は試験対策を一切せずに臨むつもりでしたが、いざこのような作業をしてみると自分の弱点が嫌なほど見えてきて学ぶことが多く、非常に有意義でした。自分の場合は、特にマルチタスク能力とグループワーク中のフォロワーシップが不足していました。これは日常生活の中でも薄々気づいてはいるのですが、一つのタスクやアイデアに集中するとそれに囚われがちになります。特にトラブル時のような心理状態だと、その習性が顕著に表れることが今回わかりました。これは自分の気質に近いので短期間で直せる(そもそも直せるものではないかも)わけではないですが、試験前にそれを自覚して臨むことができるのは収穫だったと思います。

本記事をのんびり執筆しているうちに、ようやくJAXAの公式サイトで第1次試験のレポートが公表されたので、それに基づいて振り返っていきます。「一次医学検査、医学特性検査、プレゼンテーション試験」に関しては情報が公開されていないのでここでは触れません。まず、第0次試験の合否発表の興奮が冷めやらぬ内から届いた多数のメールは、次の試験日までの流れや日程調整に関するものでした。各試験が場所と時間ともに分散して、かつ一部はオンラインで実施されたのでかなり融通の効いた印象を受けました。それと同時に、膨大な情報量がいきなり送られるので、それぞれの日程や注意事項などを処理・理解する能力が前提として暗に問われていました。こうして試験に対して意識が段々と向いていく中、ある日、小包がJAXAから届きました。中を開けてみると、第1次試験で使うらしき試験キットが入っていて確実に試験は近づいていると思わされる出来事であり、一気に緊張感が高まりました。

試験全体は7月中旬から8月上旬にわたって実施され、先に実施されたのは資質特性検査。振り分けられた受験者3-4人のグループでのディスカッションが主なる試験でした。試験開始と共に資料の配布と試験の流れが説明され、その後すぐに受験者のみで議論を進めることになりました。最終的なアウトプットとして発表をすることになっていたので、議論を進めながらグループで発表資料を作成するのが主なるミッション。自分はファシリテーターよりかは一歩引いた立ち位置で参加し、議論が煮詰まった時に話を前に進めるように意識していました。自分としては建設的な役割ができていると感じていて、議論も佳境に入りそろそろ本格的に資料を作り始めようとした時、議論を妨げられ「予定変更をしてもうすぐ発表の準備に入ってください」という悪夢のような指示が出されます。

やられた…とその瞬間に察しました。いわゆる宇宙兄弟で言うところの「グリーンカード(意図的に受験者の計画を乱すような指令を示したカード)」です。今思えばこれは事前に予期しておいて、それも計算に入れて時間管理をすべきだったと後悔しています。案の定不測の事態となった我がグループは発表資料の手直しをすることもなく、各自発表準備に急いで取り掛かることになりました。試験レポートで公表されている以上のことは言えませんが、発表後の手応えとしてはイマイチ。。。この段階での合格者を50名と予想していたので、倍率は4倍。特に今回のグループで大体1名だけが通過すると考えると自信は萎んでいくばかりでした。「第1次試験ともなると一筋縄ではいかなさそうだな…」というほろ苦さを味わいながら、凹む暇も与えられないまま他の試験の準備に取り掛かりました。

次に待ち受けていたのは、運用技量試験。郵送された試験キットが関わっている、アレです。あの封筒に何が入っているのか悶々としながら送る日々が終わってほしく、この試験を首を長くして待っていました。試験が始まり封筒を開けると、そこにはレゴブロックらしきものが…「なるほど、こういうやつか。」どんな問題が出るのかはその瞬間に大体想像ができました。問題を解き進めていくと、ついにブロックを使う問題に到達。予想通り、限られた方向から見た平面図に基づいて立体をブロックで作り上げる、空間認識能力が問われた課題でした(詳しくは下図)。個人的には(おそらく一般的にも)この問題は易しい部類で、他の問題の方が苦戦を強いられ、試験終了後は暗雲が立ち込める気持ちになりました。手先の器用さにはある程度の自信があったにも関わらず精細を欠いてしまった失望感に襲われる度に、「おそらく他の受験者も同じような状況だろう」という楽観主義で半強制的にメンタルを維持していましたね。何はともあれ、二つの難関を終えた安堵感とどう足掻いてももう結果は変わらないという吹っ切れた気持ちが込み上げてきて、残りの日本滞在を全力で楽しむことに専念し始めました。(ちなみに滞在最初の週で既に暴飲暴食が祟り胃を痛めていました…)


ブロックを用いた試験問題の例(第1次試験レポートより)

合否発表とこれから

試験が終わり本拠地のアメリカに戻ってからというもの、自分でも驚くくらい選抜試験から頭を切り替えていました。というのも、ほぼ全ての受験者が勉学または本業と受験を両立しているように、僕も本業の研究活動に専念せねばいけません。実は、第1次試験を受けていた夏ごろから職場での昇進話で研究へのモチベーションが上がっていたこともあり(後日違う記事でこれは扱う予定)、選抜受験に向けた準備で停滞していた研究活動を一刻も早く通常運転に戻したい気持ちがむしろ強かったです。大変ありがたいことに、ここ最近の研究がある程度評価されとても充実して仕事を回せていたので、「万が一宇宙飛行士になれたら、このキャリアを捨てないといけないのか」という寂しささえ妄想していました。

それと同時に現実的になり、落ちた時の心の整理を考え始めたのもこの時期でした。自分含めほとんどの人が何か夢を追いかけるとき、それが叶う妄想に浸るのが楽しくて、そのニンジンのおかげでつまらない労働や単調な日々を乗り越えられるのだと思います。ただ多くの夢には終わりがやって来て、(稀に叶った場合はその妄想と勢いに任せて突き進めば良いのですが、)多くの人はそのほとんどが挫折であることを経験的に学ぶわけです。なのでこの挫折時での自分との向き合い方をちゃんと考えておかないと、この先の人生で心が疲弊するだけだと過去の経験から実感しました。ましてや今回の選抜試験は倍率1000倍程度のある意味負け戦。わざわざ挫折して心を疲弊させるために夢を追いかけているわけではないので、不合格通知をどうすれば肯定的に受け止め、まだ続く人生に活かせるかを、受験者仲間とも話す機会がありました。

その中で、今でも僕の心に刺さっている言葉を言ってくれた方がいました。

「自分はある意味、夢を諦めるために選抜試験を受験しています。宇宙飛行士の夢はほとんどの確率で叶わないのが現実だから、いつかは挫折して諦めないといけないけど、試験で落とされるくらいしないと諦めきれない。」

野暮な解説をする必要もないですが、この方はもちろんダメ元の軽いノリで受験していたわけではなく、第1次試験の準備もしっかりされていたのを僕は見ていました。経歴を見ても最終選考まで残るだろうと僕が勝手に予想していた一人です。
そんな実力者でも理性的に現実と向き合い、諦めきれない気持ちとの狭間でこの選抜試験の意義を見出そうとしていました。奇しくも、僕自身の精神状態をかなり忠実に言語化してくれたように感じて、とても気持ちが楽になりました。今回の試験で落ちてもその経験は無駄ではなく、夢にひとまず一区切りをつけることができる。これは選抜試験を受けたからこそできることなんだと思います。それ自体は絶対に辛いことなんですけど、でもそうしないと気持ちはいつまでも囚われてしまう。「そこから脱して前に進むためのきっかけにする」のが、この選抜試験を受ける意味なのかなとその時初めて自分の中でしっくり来ました。この言葉を聞いて以来、積極的に不合格通知が来る想像をしていました。やはりそれまでの試験の中で一番自信がなかったのもありますし、今考えると、(実際にそういう経験はないのですが)あれは余命宣告後の人生観に近かったのではないでしょうか。出願を決めてから半年が経過し、気づけば木々の葉が色づく季節。今まで当たり前だと思っていたこの生活に終わりが来ることを悟って1秒1秒を大切にしたり、穏やかにその終わりを迎えられるように心の準備をしていました。

そして1次試験が終わってから1ヶ月が経ち、もう永遠に結果が返ってこないのではないかと疑い始めたある日、その時はついにやってきます。大学のジムから車で帰路についたとき、スマホにJAXAからのメールが通知されました。それに気づいた時「とうとう来てしまった…」と、持っていかれそうな意識をどうにか運転に集中させ、帰宅した瞬間パソコンの前に飛んでいきます。大きく息を吐きどんな結果でも受け入れる覚悟を決め、Webページからメールを見ると見慣れない文面とそこには確かに「通過には至りませんでした」の文字が、

「やっぱり、ダメだったか…」

心の準備をしていたからか、その瞬間に感じたショックは思ったよりも大きくはなかったのですが、ただ何度読んでも目の前にあるのは不合格通知に変わりはありません。そして徐々に心に空いた穴を見て見ぬふりはできず、さまざまなことが頭を駆け巡りました。宇宙兄弟を読み返して感情移入していた自分。日常の仕事がどんなに辛くても妄想している時間だけは非日常を味わえていた自分。研究に頭を切り替えていたつもりでも、夢が終わる心の準備をしたつもりでも、やはり頭の片隅では夢が叶う未来を描いていて、いつも自分の心の支えになっていました。しかしそんな未来はもう跡形もないことに嫌でも気づきます。こうして僕の夢はあっけなく散ったのです。

以前執筆した大学院受験失敗談の記事でもほとんど同じようなことを書いた気がします。やはり人生は挫折の連続ですね。単に情緒的な文章になるのも嫌なので、不合格通知に添付されていた結果を見ると、僕は資質特性検査(グループワーク)で絶対基準を満たしていませんでした。そして全ての項目で絶対基準を満たしても、あとは相対評価で上位50名に届かず涙を呑んだ受験者仲間もいるので、自分は惜しいというレベルでもなかったようです。心当たりとしては既に述べた通りで、純粋に自分の実力不足だと思います。もちろん悔しくてたまらないですが、自分の弱点を学べたことが収穫と前向きに捉えたいです。

加えて、もう一つ収穫がありました。職場では直属のボスにしか話していなかった今回の受験に関して、日本の友人には夏の帰国の際に打ち明けています。また上述のように、途中の選抜段階で涙をのんだ受験者仲間も含め、多くの友人が僕の挑戦を応援してくれていました。なので、不合格を知らされた瞬間に「これをどう言葉にして報告しよう…」という気持ちが頭をよぎりました。結局僕からは感謝の言葉しか出なかったのですが、反応として予想していた労いに加えて

「夢を見させてくれて、ありがとう。」
「挑戦に少しでも役に立てて嬉しかった。」

といった言葉をかけてもらいました。今まで、いろんなことに挑戦はしてきて、友人から多くの恩を受けたことはあっても、逆に自分が誰かに影響を与える人生を送れているとは思えていませんでした。(というよりお恥ずかしながら、自分の人生を生きるので精一杯でそんなことを考える余裕がなかったのが正直なところ…)今回の選抜試験も、僕が自分のために勝手に始めた挑戦にすぎないと思っていたのですが、こんな反響をもらうと「人間は思ったよりもお互いに繋がっている」と気付かされます。そして、人生の多様性が増して模範解答がなくなっていく中でも、「自分の生き方はこれでいいんだ」と再確認することもできました。重ねて、応援してくださった友人には感謝しかないです。ありがとうございました。

今後のことについて最後に触れますと、JAXAは約5年ごとに宇宙飛行士選抜試験を実施すると公言しています。冒頭で触れたように、次回の受験を考えている方がこの記事で選抜試験の雰囲気を感じ取ってもらえたら幸いです。僕自身に関しては、もちろん未来のことはわからないですし、家庭を持つなどして夢を自由に追いかけられる環境にはいないかもしれません。現時点では次回も受験するとすぐ言える心持ちではまだないですが、ただそれでも何かしらの夢を見つけては向かっていく性格なので、5年後に選抜試験が実施されたらやはりまた目指すんだと思います。それくらい今回の半年間は楽しく、30代に突入しても中高生のように夢に向かって努力できる自分を発見する機会にもなりました。と同時に日常に戻った今から振り返ると、夢を見られたあの日々がとても尊く感じられ、次にいつできるかもわからない貴重な体験だったのだと実感しました。なので、また何かの機会が来た時のために、腐らずこれからもまだまだ走り続けようと思います。


長文記事をここまで読んでいただき、ありがとうございます。
最近ネガティブな出来事に関する記事が続いているので、次回はポジティブな職場での昇進について、当事者視点から綴りたいと思います。

では。


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