見出し画像

観劇 おやっとさあ

戦中・戦後の話。舞台で観る戦争の話は、より心に刺さる。テレビでは少なくなっている気がする戦争の物語。今回、観に行って本当に良かった。

満州を日本の領土とし、日本人は絶対的な存在だとしている上官。そしてその下に見るべき満州人と親しくする豊作。豊作がやっていることは、満州人を人釣りの人間として見ているだけ。昨今のジェンダーフリーなど色々な差別に対する考えよりも、もっと根本的な事。人を人としてみる。それが出来ているのが、豊作だけだった

そしてこの物語のもう一つの軸は、現代のパワハラ・セクハラが横行する会社。この物語が、いわゆる戦争の話ではなく、人を人として扱わないことの恐ろしさ、そして、それは戦争というものが人をおかしくしたのではない、現代でも普通にあるんだという怖さを浮き彫りにする。人と人との繋がりの大切さを説く一方で、本質はその真逆にあるのが怖く、そして秀逸で面白さがあった

満州人と仲良くして上官に目をつけられる豊作。満州人を殴れ、そして殺せという命令をされる。刀を持ち、振りかざす。ここも、あっさりと「そんなことはできない」と言ったら、ただの正義感溢れる青年で終わったところ、葛藤することで人間らしさが出ていた。他の兵なら、あっさりと殺していたかもしれない。蚊やゴキブリ相手の様に。それができない豊作。そんな豊作の孫、和世が現代の犠牲者になっていた

時代は2010年前後。まだパワハラという言葉がそれほど社会的な強さを持っていなかった頃。
和世はまだ入社3年にも満たない社員。まだ20代前半。妹の静香が、自分は4年生大学に行って頭良いからーと言ってる下りを見ると、もしかしたら、和世は短大か専門学校卒かもしれない。そうなると、同級生はまだ大学生かもしれない。
そう考えると、和世は友人と会って、飲み会とかに出て愚痴をいうことが出来たのだろうか。いや、そもそも、それだけ忙しい中で、飲み会にも参加できないかもしれない。
そんな中でストレスだけ溜め、苦しみ、セリフでも「自分が悪いから」と言う悪循環。
まだ三年もいないからと、3年働けば何かが変わると言って働き続けている。
そんな危険な状態の和世を演じたのが崎野萌さんだった。
これまでの舞台出演歴からも、複雑なバックボーンがある役ほど、自分に落とし込むのがうまい崎野さんだからこそ、この物語の中で一番複雑な和世を任されたのは納得だった。

今回、最前列、下手側で観た。その時、その席でしか見えなかったものが見えた。
岡谷という上司にパワハラを受けるシーン。作中で、唯一と言っていいパワハラシーン。ファイルで頭を叩かれ、それはパワハラではない、撫でているだけだと言い放つ。
そのシーン。下を向いて、ファイルを頭に押し付けられた状態で、見せた笑顔。引きつった、「パワハラではない」「自分が悪い」という事しか言えない、とりあえず絵顔を作った時の顔。いじめられた子が、どうしようもなく笑う時の笑顔。その絵顔すら、岡谷や周りの人にも見えていないかもしれない。そんな小さな笑顔。
凄く印象的なこの笑顔だったが、この笑顔が、和世の変化に伴って変わっていった。

家で豊作が帰りを待っていて、和世を抱きしめた後、自分の素直な気持ちを初めて吐き出し、泣いた後、「おやすみ」の時の笑顔。
この後、会社をすぐに辞めるわけではない。結局、この後、豊作とトヨの葬儀にも参列できないほど忙しさは変わらず、妹の静香には社畜とまで言われてしまう。
この時、きっと変化を促すほどにはならなかったのだろう。正確には、やはり言えないというのが正しいのだろう。自分が悪いと思っている以上、迷惑ばかりかけて辞めるわけにはいかない。辞めたらみんなに迷惑がかかる。そんな風に思い込まされてしまう。和世の様に真面目で優しい人間ほど、そう言う状態に陥ってしまう。
でも、吐き出したことでまた爆発寸前だったストレスを外に出し、そして楽になった。その笑顔。前向きではないかもしれない。まだ頑張れるという気持ちにすらなってしまったかもしれない。でも、一つの小さな楔になったのは間違いない。その瞬間の笑顔。

そして退職をする時の笑顔。
「仕事辞めます」と言った時、岡谷はまず「勝手だねえ。引継ぎとかどうするんだ」と言い放つ。すぐ辞めるとは言っていないのに。引継ぎもしないとは言っていないのに。
これまでも、こういう風に言って来たのだろう。和世もそれを見ている。だから言い出せなかった。そして、以前の引きつった笑顔の和世なら、ここで引いてしまっていたことだろう。そうならないと感じさせたのが、途中に見せた小さな笑顔。
直接本社に事情を説明し、辞表も受理してもらった。この行為を、「本来の規則や常識から逸脱している」というのは、おそらく岡谷側だろう。
和世は逃げていいと豊作から言われた。そして仕事を辞めた。でもそれは、逃げたのではなく戦って辞めた。
裁判が和世が起こしたものかはわからない。あの様子では、前から聞いていて、心当たりがある感じだった。それでも和世は、本来の規則を無視した。それは戦いに他ならない。
戦ったからこそ、「おやっとさあ」の時の笑顔ができる。
この流れ、和世の変化を見たとき、まさにこういう役は崎野萌さんの真骨頂だなと感じた。

そもそも、戦う気持ちになったのは、鹿児島で残された手紙を読んでから。それは、豊作とトヨが結婚してからの話のはず。
劇中では、力蔵の最期を話すシーンが出てくるが、あれが残された手紙の中にもあったのだろう。結婚のきっかけになった話として。
そして、それまでの豊作の行動。満州人を一人の人間として扱うこと、そうやって時代と戦ったこと、力蔵という仲間を海に捨てなくてはならなかった辛さと戦ったこと。それらを豊作は「逃げた」と表現し、自分はずっと逃げたいときには逃げたと言っていた。もしかしたら、結婚後の話の中にも、豊作からしたら「逃げた」ことがあったのかもしれない。でも、トヨの書く手紙から、和世は「戦った」と捉えたのではないか。
そして、最低限、きっちりとやるべきことはやり、そして辞めた。

ラストシーン、豊作とトヨの姿を見る和世の笑顔。時系列では会社を辞める前だが、あの笑顔があったからこそ、「おやっとさあ」の笑顔に繋がるかと思って観ると、より和世の気持ちの変化が分かりやすい。

和世は、豊作とトヨ、そして周りの人々の生き様を見て、それが小さな種として心に根付き、最後に花を咲かせた。
この物語で特徴的だったのは、その過程をまさに一緒に「見る」ということ。話を聞いているのではなく、見ているのだ。実際には光景が見えるということはあり得ない。聞く演技になるところ、そうではなくまさに一緒に見ている。
満州人が反逆して日本人を撲殺するところでは目を背ける。それらの光景があることにより、観ている側も追体験のように感じることが容易になる。
この演出があるからこそ、和世への理解もしやすい。回想シーンを見るリヨ子、和世、静香の三人の”解説”は完ぺきだった。

トヨが最後に豊作に聞く力蔵の死。やはり、あの説明では納得がいかなかったのかと感じた。それは、るみの言葉もあるだろうが、もし、有馬家に説明した通りの最期なら、帽子以外にも持ってこれたのではないか。遺体とはいかなくても、遺骨の一部でも。それができていないのは、そうできなかったからではないか。
観ている側にそう思わせる種も蒔かれていて、満州人が反乱を起こしたとき、力蔵は助けてもらっている。満州人に追いつかれて殺されたというのなら分かる。それが、「監視」していた時にソ連兵が外で発砲していて飛び込んだという”勇敢”な理由は、観ている側としては少し疑問符が浮かぶ。
満州人の反乱を聞いて・見ていた和世もそう思っていたかもしれない。しかし有馬家に話した時、和世は”解説”から外れていた。もしいれば、その解説が入らないと不自然だったからかもしれない。
そしてその疑問符は、死の真相は別にあるのではないかと思わせた。船から落とされたというのは何となく感じていた。だが、今こうして書いていると、改めて自分の想像力のなさ、戦時下における考えが甘いと痛感させられる。

満州人にしてもソ連兵にしても、見つかったら豊作も殺されていた。それが豊作だけ生きているということは、そういうことではないと思っていた。
しかし「逃げたらいい」という言葉に引っ張られていたら、力蔵を置いて逃げたという結末も想像に難くない。逆に、本当にそうだとしたら「逃げたらいい」なんて言えないかもしれないとも思ってしまうが。
人を壊してしまうのが戦争と聞く。悲惨な話が多く、劇中の静香の様に、戦争の話を聞くのは苦しい。家族を見捨ててでも逃げないといけない場面も数多くあったはず。

だからこそ、今回、ゴブリンさんが自分が戦争の物語を書いてはいけないと思っていたという気持ちも分かる。自分が戦争の話を書こうと考えて、真剣に戦争と向き合った時、戦争は駄目だと言うのに、世の中には「ゲーム」として戦争をテーマにしたものが多い。モデルガンとは言え、銃を持ち、相手に「死」の判定をつける。
ゲームだからと言えばそれまで、実際にできないからゲームで発散しているとも言う。でも、そういうものを通して、勝利の味を覚えてしまったら、短絡的に実際の銃や戦争に憧れてしまう人もゼロではないのではないか。
もし自分が戦争を書くことで、その中に英雄が生まれたとしたら、それを憧れの対象としてしまうことはないか。そんな怖さもある事を、以前考えたことがある。
だからこそ、今回の作品は、太平洋戦争だけではなく、そこから通じる現代の戦争を絡めたから、どちらもひどさが引き立つ。そこに憧れる英雄はいない。和世も英雄にはなり得ない。身近すぎるからだ。作中で、自分の祖父母が戦争を体験していると考えると、そう遠くないように感じるというセリフがある。身近に感じると他人事ではなくなる。パワハラやセクハラは、自分たちの身近にある問題。それを提起することで、戦争もそう感じさせるところがあった。

コメディ作品でたくさん笑わせてもらったゴブリンさんの作品だけど、シェイクスピア作品に触れる機会もくれたり、戦争を考える機会をくれ、そして身近な問題も考えさせてくれた。
今、日本の企業はまだまだ問題がある。今回の作品でも、パワハラをしてたのは、根性論や自分より下の者には強気であたる「上官」のような古いタイプの人間だった。作中の時代背景から10年近くが経った今、そういう人間が少なくなってきたが別の問題が出てきている。
そういう人間がいなくなっても、古い時代から存在する会社には古い体質があり、それが自然なものだと思っているからパワハラを生んでいることに気が付かない。
今回の作品の中で、権力を振るっている人間たちも、それが当たり前だと思っている。
和世は3年も経っていないのに辞められないと言っているが、仮に3年経って辞めたとしても、「また3年で辞めた。これだから最近の奴は根性ない」とか言われてしまう。そんな体質がまだある。一方で、パワハラという言葉が先行し、自らの失敗から得た教訓を話そうとすることすら言えなくなっている実情もある。それは、人と人との対話の機会を奪ってしまっている。
豊作が、どんな相手でも話してコミュニケーションをとっていた豊作が今の世の中を見たら、きっと悲しむのではないだろうか。

どちらか一方の意見だけ聞くのではなく、両方の意見を聞く。きっと豊作ならそうしていたのではないかと思う。今の時代にこそ、豊作のような人間は必要ではないかと思う。

ゴブリンさんには、今の企業、特に古い体質の中小企業が抱える現代病も描いた作品を書いて欲しい、作って欲しいと、今回の作品を見て思った。
戦争の話に関わらず、表現できる力・表現できる場がある人が、問題を取り上げてくれることで、それが観ている人の心に残り、そこからまた広がっていく。今回の作品が再演となったように。そういうことができる人たちは、きっと限られているし、そういう人たちには頑張って欲しいと思う。もちろん、自分ができればいいけど、そう簡単には出来ない。だからこそ、夢として託したいとすら思ってしまう。

今回の事で成長した和世を主役に、企業が抱える闇を浮き堀にする作品が出たら観たいなあ。その時は・・・やっぱり、崎野萌さんが和世だと嬉しい。

最後に、本作品で聞かれる「まこて」。なんだろう。凄く力を感じるし、楽しい気持ちになった。今でも目を閉じると、「まこて」と聞こえ、そしてトヨの高い笑い声が楽しく耳に残る。
いい作品だったなあ。配信でも観られるだけ観よう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?