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観劇「夜明けのうた(再演)」

東日本大震災をテーマにした作品。震災をテーマにした演劇作品は、これで2作品目だと思う。今回は、奥山琴夏さんが出演される縁で観劇へ。
3月は休みはほぼ観劇で埋まっていた。ところが、なぜか3/11だけポツンと予定が空いていた。震災の話、そして行ける日がこの日だけ。これは呼ばれている気もして観劇へ。
マチネとソワレ、どちらにするかも悩んだ。野暮用があり、行けるのはどちらかだけ。結果、あの日のあの時間に近い、マチネを選択。少しでもあの瞬間を思い出せればと思った。

福島が舞台。地震が起き、避難所に逃げるも、離れ離れになる家族。家族の安否が心配で、そして避難所での体調不良、知らない人たちとの衝突。これだけ書くと、ドラマや映画、ニュースなどでも取り上げられていた震災のよく聞いた話だと思われるかもしれない。
でも、それが真実であり、現実ということを思い知らされた。

あの日、自分は都内で仕事をしていた。電話は繋がらなくなったが、パソコンでのメールやインターネットは生きていて、情報をある程度とることが出来た。それでもその日は帰宅する術がなく、会社に泊まらせてもらった。親戚が東北にいてその心配もあったが、同じ関東にいる家族とすら連絡が取れたのは夕方だった。
しかし同じ日、福島で何が起きていたか、リアルタイムの様に追うことが、この舞台を通じて改めて痛感させられた。
そしてこの作品が他の震災を扱った作品と違うのは、聴覚障害者の被災を描いていること。
申し訳ないことに、身近に聴覚障害を持つ知人がいない。だから、被災した時にどうするか、どうなるかということを、健常者基準でしか考えたことがなかった。
最初に防災アナウンスが入った時、それを伝えるのは周りにいた家族だった。強い地震が来たというのは分かっても、避難しないといけないと分かっても、津波がどのくらいで到達するなどの情報が分からない。テレビをつければ分かると思いがちだけど、劇中ではテレビすらつかない。震災の時、防災アナウンスが多くの人の命を救ったとも聞いた。でも、それでも救えない命もある。言われてみれば当たり前のことだけど、言われないと分からない。身近にそういう対象の人たちがいないと分からないなんて、自分の認識の甘さも痛感した。
聞こえることは当たり前。そう思っていると聞こえないなんて思わない。そんな事実が各所に出てくる。
避難所で携帯電話を借りる時もそうだった。後ろから声を掛けても反応がない。無視されたと思い、感情は怒りになり、携帯電話を強引に借りようとする。でも、何も分からないでそんなことをされたら、ただの強盗にしか見えない。恐怖でしかない。
そしてもう一つ。避難所で毛布を配給する時、係の人の声が届かないと、何をしているのかも分からない。そしてなにより、「なにをしているのか」と訊ねることもできないのだと分かった。ペンと紙を常に持っているとは限らない。携帯電話のメモ機能も、携帯電話の充電があればできる話。
伝えられないもどかしさ、音のない声を理解できないもどかしさ。
そんな気持ちがしっかりと伝わってきた。それは、今回演じていた人たちが、とても丁寧な演技をして、一つ一つ、しっかりと伝えてくれようとしているからだろう。それこそ、聴覚が不自由な人と会話をするときのように、丁寧に伝えてくれた。
今回、観劇のきっかけになった奥山琴夏さんを知ったのは、コロナが始まる前年だった。その時、初めて観た彼女の演技に圧倒された。数多くの作品を観てきたが、”圧倒”という言葉が当てはまる演技をみせてくれたのは、他になかなか思いつかない。その後、なかなか舞台で観る機会がなかったが、今回、待望の舞台出演。あの時と同じ、最前列でその演技が観たいと思った。離れた視点は配信で観ようと決めていた。
そして丁寧な言葉と手話。そして歌声。まだ乙女心も分からないと揶揄されるほど、ピュアな役だが、そのイメージにピタリとハマる。
そして津波を目の当たりにするシーン。
ここで、他の人たちはただ一点を見つめている呆然としているような表情や、初めてみる光景に時が止まったかのような視線。
ところが、琴夏さん演じる祈だけは違っていた。
視線が動く。一点集中ではなく、左、右、中央、遠く、近くと動く。1人だけ動く、その視線の意味は、次のシーンに繋がっていた。祈だけが、津波による惨劇をしっかりと捉えていて、その状況を説明する。そして恐怖に怯える。しっかりと、その目で捉えて追っていたからこそ感じる恐怖。そこまで繋げるため、祈だけは視線が細かく動いていた。
その視線の動きは配信では観られるだろうか。でももう一度、あのシーンを観たい。そしてこのシーンを観て、ますます琴夏さんの演技に、祈という役をどう理解し、どう作り上げたのかに興味が沸いた。
この祈は、自分にできることをやろうという感情が芽生え、それは物語の最後に花開く。祈という存在は、ピュアだという印象が冒頭で頭にあった。それはすなわち、子供ということにも捉えられる。震災は多くの物を奪った。でも、それが心を強くするという側面もあった。それが、祈の成長という所ではないかと感じた。
まだ子供、危なっかしいというところから、津波の脅威を目の当たりにし、命が消えていく様、屋根に車が載るなど信じられない光景を見て、その上で自分の大切な人たちを守るために、助けるためにどうしたらいいのかを考えられるようになった。ただ突っ走るのではダメだ、自分のできることを見極めて一つ一つ始める。こう考えられるようになったのは、ピュアな祈だからこそ。それは、多くの物を見て経験してきた大人には難しいこと。その対照的なものが間宮だった。間宮の中にあった「諦め」「あがいてもしょうがない」という負の存在を、祈が浄化する。そんな様に見えた。
この祈の成長過程を、琴夏さんは丁寧に演じていた。その一つ一つの細かな演技が成長過程を紡ぎ、そして最後、自分にできることをやり始めた時に感じた様々な感情から出る一筋の涙。自然に流れ出るその涙は、初めて琴夏さんを観た時とは正反対で、でも印象に残る素晴らしい物だった。
間宮の感情が少し理解できるからこそ、祈の姿が自分の心にも響いた。
震災の後、翌週月曜日、勤務先に行こうとしたが7時間以上かけても会社にたどり着けず、勤務先から「今日はもう閉めるから帰っていい」と言われた。そしてその間も、そして翌日からも、節電のために電車の灯が消えていたのを見て心が沈んだ。もういつどうなってもおかしくないと感じた。東北の親戚の無事も分かっていなかったし、余震で関東も揺れる。
友達とも会おうという気持ちがなくなり、仕事をしている時だけ日常が戻った気がしていた。でもそれは、間宮と同じで「自分にできることを何もしないでただ諦めていた」だけだった。
そして、そんな自分を救ってくれたのが演劇だった。以前、観劇は何度か行ったことがあったが、友人が出演される舞台限定で趣味という程ではなかった。でも、震災で落ち込み、友人とも連絡をとらなくなっていた時、ふと、演劇というものにたどりついた。前に行ったなと思い、また行ってみようかと。そしてそこから、日常を忘れられる演劇というものにハマり、今でもほぼ毎週のようにどこかの劇場に通っている。
演劇に行くようになり、自分の日常とは違う世界で生きる人たちと、面会で直接話をすることで人との関わりの大切さも改めて理解した。そんな生活の中で、琴夏さんを知り、応援していこうと思った矢先にコロナがあったが、あの時とは違い、ずっと応援してきた。そして今回、素晴らしいものを観せてもらい、また縁がつながった。
一時期は映画をよく観ていたが、演劇にハマったのは、その人との関わりを直接感じられるからかもしれない。
そしてこの物語は、そんな当たり前の人との関わりを本当に丁寧に積み上げている。
その象徴が、手話を教えて欲しいというシーンだろう。
作中でもそうだったが、手話というものは、分からない人はほぼ分からない。それは学ぶ機会もなく、かと言って自分でその機会を作るかというと、なかなかそれもしない。必要性を感じないというのが、大半の理由なのだろう。
でも、学ぶ機会があればどうだろう。難しいかも知れないが、知らないことを知る機会というのは楽しくもある。作中でも、難しいと言いながらも、笑顔が生まれていた。出来ないことが出来た時、人は嬉しく感じる。あの瞬間、うるさいと怒鳴った間宮も、きっと描かれなかった物語のその後は、きっと一緒に手話を学ぼうとするだろう。そんな気がした。

会話ができないと、人と人との関係は構築できない。間宮は他社を寄せ付けなかった。それは、祈たちも含めて。会話をすることなく、ただ、ギスギスした関係になっていった。それが、手話でしか会話が出来ない楓たちと会話をすることで、大きく心が動いた。
「聴覚障害者の人とは会話できないから」ではなく、会話をしようと行動し、そして言葉を交わすことでお互いへの理解が深まる。
人は優しさの半面、残酷さも併せ持っている。自分を基準に「普通」として、それと違うと拒絶したり、排除しようとする。障害という言葉も今は良くないのだろう。でも、障害がある人と、その困難を乗り越えられたとき、その絆はより強くなるのではないかと、今回の作品を観て強く感じた。
作中、なかなか間宮に対して自己紹介すらしていなかった。そしてそれを見て、そして手話で名前を伝えるところを見て、まずは自分の名前を伝えるところから始めよう。気の利いた言葉なんて要らない。名前をお互い伝え合う事から始めよう。
もしかしたら、この数分後に地震が来て、避難所に行くことになるかもしれない。知らない人ばかりの場所かもしれない。その時のはじめの一歩を教えてもらった。

この作品はフィクションなのかノンフィクションなのか分からない。でもきっと、多くの避難所があった中、どこかであってもおかしくない。いや、きっとあったのだろう。フィクションだとしても、限りなくノンフィクションに近い作品。
毎年この時期に公演を行なってほしい作品だと改めて思った。

そして今回の劇場であるキーノートシアター。ここの大きさが適度な閉塞感があり、地震を体感した時の恐怖に似たものを演出してくれている気がした。

今回、クラウドファンディングも事前に行なわれていたが、公演後だったらどうなっていただろう。もしかしたら、また違っていたような気がする。少なくとも、自分はもっと支援しても良かったと思った。

今回、これだけの想いを書くことが出来た作品に逢わせてくれた奥山琴夏さんに感謝。
そして手紙でも挨拶する機会をくれた団体さんにも感謝。
こうして人の縁は繋がっていくと実感。
閉塞感のあった舞台に、一筋の光となる歌声を、配信でもう一度聴こう。

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