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「禅の響 -ZEN no OTO- | 鑁字 」道理なんてクソ喰らえ!

自分を納める。

その器を自分で作る

作る手には年月がかかる。

納まるにも時間がかかる。

道理は器に納まる事でわかる。

納まりきらない矛盾と共に。

 鑁字(ばんじ)という曲を吹禅するにあたり、この曲は本当にお経のようだと思いました。集中して吹くと、それはもう、どこにいるのかわからなくなるくらいでした。まさに「空」の状態です。曲を勉強するにあたり、もう芸術であるのかないのか、こだわりもなくなり、一つの壁を超えた気分になりました。より深い自然の音への習得。

 そうした心持ちの中で、ふと道理という言葉が浮かんできました。道理とは「物事が正しいすじみち。また人として行うべき正しい道。」または「すじが通っていること。正論であること。そのさま」だそうです。私は道理とは素晴らしい言葉だと思っていました。が、この鑁字を吹く境地の中で、とてもおこがましく、そして滑稽で、窮屈な言葉だと感じるようになりました。

 私たちは生まれて間もなく、両親や学校などで各々の良心を学びます。それは家族の中での道理出会ったり、社会についての道理であったり。長い年月、当たり前になるまで刷り込まれて、気がつけば自分が正しいという価値観なども生まれてきます。学生などを終えて、社会に入るとさらに道理は重宝されます。正しい。間違っている。その世の中に優しさはあるのでしょうか。

 私はYahoo!のニュースを毎朝何気なく流し読みをしています。Yahoo!のニュースにはコメントがあり、それを観るのが楽しかった時期があります。私の思考が世間とずれているのではないかと思う事があり、普通の人はどんな感じ方をするのかと興味が湧いたからです。そのコメントは大抵が批判めいたものが多く。言葉に責任もなく、とても狭い視野、後ろにある背景も察せずコメントしているものがほとんどでした。私は私でいいのかもしれない。そう思い、今は記事の斜め読みだけに終わらせています。

 人は周りくどいもの、はっきりしないもの。そう言ったものを嫌うと世間は言います。一言で言い表すのが大事。要約をする事が大事。私はそうは思わない。もし、そうしたものが世界に蔓延したら要約だけの浅はかな、背景もない、薄っぺらな表現だけになってしまう。私はそう感じます。その人に委ねながら、ゆっくり話を聞く。そう言う時間が沢山あることが人生を豊かにすると心から思います。

 じっくり聞いていると、その人の生き方も見えてきて、すっかりその人に心を開いているものですから、その人の人生の在り方にも、うんうんと頷き、そうすると言葉の壁を超えて伝わってくるものがあり、その人の心の矛盾も愛する事ができる。

 さて、では自分の道理を通すことは必要か。これはとても面白く、必要ないともいえますし、あるともいえます。散策に出かける時、道を考えたり、歩きにく石場を進む時、道理は必要なのかもしれない。しかし遠くの山を目指して歩く時、いうほど道理は必要のないものなのかもしれない。そんな事はないよという人もいるでしょうが、もし遠い山を目指して、この道を歩かなければならないという風に歩いていたら、周りのものを見る、感動する機会も奪われ、歩くことだけが目的になってします。そんな悲しい散策はないのではないでしょうか。

 音も同じことがいえます。綺麗な音、誰もが聴いていい音。いつからそうした音だけを求められるようになったのか。私は今一度、自分の音を探しに行くよ。それでも勇気が湧かない時はこう言います。

「道理なんてクソ喰らえ!」

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