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禅の響 - ZEN no OTO-

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「禅の響 - ZEN no OTO -」は2020年10月から始動した年4回行われるコンサートです。 ここに、言葉と音のアーカイブを残します。 尺八の音は音楽ではない。   …
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2020年11月の記事一覧

「禅の響 -ZEN no OTO- | 手向」手を合わせる事での自分への向き合い方

いつからだろう、手を手と合わせる行為をするようになったのは。 この国は、常に自分の中の心を向き合う心を大切にしている。 私はそうした、ほのかな感覚が好きである。 手向る事は遥かに多くを伝えられる。 数えきれない程の別れは、数えきれない程の感謝に繋がる。 私はいつも心に手向たい。  人が亡くなる事は、とても悲しい。しかし亡くなった方を思い出す時は優しい思い出ばかりです。手向はそうした思いが混在している曲のように思います。  私は、いつも食事をする時と終える時に手を合わせます

「禅の響 -ZEN no OTO- | 虚空」無我の境地

 人は意識する。何故、意識するのか。 自我。他人。社会。環境。あるいは人生の意義。 それは生に執着する心の顕。 様々は知っている。意識は浅はかで、都合がよく、とても儚い。 手に溜められた一掬いの水に自分を映すようなものであると。 時間と空間の支配の顕。 一心は、それを淘汰する。  今年に入り虚空をどれほど吹禅したでしょうか。純粋に尺八と向き合いたかった。そして、どれほど自分が尺八を愛しているのかを知りたかった。ただそれだけだったのかも知れません。  今年1月か

「禅の響 -ZEN no OTO- | 本手ノ調」生きる事の深さを見つける

生命は息し、それは無から一瞬に解き放たれ放出し、やがて終焉を迎える。 無は次のはじまり。生命力に溢れ、命を凝縮している。 この一連の流れは、地球が生を終えるまで無常に繰り返される。 人間はありとあらゆる死から目を背ける。 恐怖は極端に萎縮され、小さな個人の枠組みを形成し、そして全てを盲目にする。 万物の過程は人間が考えている以上に、美しく、幸福に満ちている。  人は何故、死に抗おうとするのでしょうか。それは呼吸を止めてしまうのと同じように思います。自身が死して尚も、血や形状