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その庭木を眺める瞬間は

フリーランスの職場はあちらこちらに散らばっているので、それぞれ地域特有の魅力を知れて得だと感じることが多い。

月曜午前の職場は閑静な住宅街の真ん中にある。 おおむね12時には仕事を終え、次の職場に移動しようと車を走らせる。
決して高級住宅街というわけではない。新興でもない。全体の雰囲気や家屋の劣化を見れば、2、30年前くらいに開発された場所ではないかと推測する。

先日、その住宅街の庭がどれもこれもよく手入れされていることに気が付いた。庭木の枝や蔓はしっかりと塀の中に収まっていて、車道からの景観がとにかく整然としている。
それぞれ庭同士の調和もよく取れている。住宅街全体にコンセプトがあって、皆がそれを崩さないように配慮されているように感じられた。

住民同士が違いに気を遣っている光景が目に浮かぶのだが、そこにはここ最近のギスギスした空気感は想像できない。もちろん近隣住民の軋轢がない地域などないのだろうが、ここの住人たちはきっと心が高級なのだろうと勝手に妄想した。
適度な心遣いとはいつ何処でも心地の良いものだ。それが自分に向けられたものでなくとも。
それから週始めに気持ちが改まるような体験を得る習慣がついて、ますますお得な気持ちを感じるようになった。

不思議なもので、土曜日にその地域を訪れてもそのような感慨を得ることはない。それどころか庭木一つ目に入ってこないのだから、人の感性のフィルターはその時々で違うものを炙り出しているのだろう。きっと土曜日の仕事が終わった時には「今週末はどこで飲もうか?うぇーい」モードなのだと思う。

さきほど住宅街全体のコンセプトと言ったが、おそらくは地域に根ざした造園業者があるのだと思う。庭木らはそれぞれ家屋の雰囲気に合わせていながらも、住宅街全体において個性が見え隠れする。もちろん造園も庭木の仕事も門外漢なのだが、庭木が好きで長年ぼんやりと眺めてきた人間の勘である。

そして妄想はさらに加速する。
昭和期に辣腕の庭師がいた。もちろん堅物の男だ。その弟子が一人また一人と増えていき、息子だか娘だかが父親の技術を守り広めるために法人化した。一番弟子が育ち始めた頃にちょうどその地域の開発計画が興り、庭師の感性を具現化するための一大計画が始まった。庭師の頭の中にあったものは、住宅街全体の庭を一つのコンセプトに入れることによる、地域住民の乳化である。一であり全である、それを剪定の技術で表現することが、きっと庭師の野望だった。そうして完成した庭々が、今でも影で住民間の軋轢の調停を請け負っている……ように僕には思えた。

少し妄想が過ぎた。
気遣いにしても手入れにしても、面倒くさいと思うことや効率を求めることで、逆に自分の首を絞めることがあるだろう。手間隙をかけることを怠ると、むしろ心のもやに囚われて時間が吸い取られたりする。
そのような手間隙を第三者に委託することには賛成である。気遣いや手入れが苦手な人間もいるし、時間は有限である。しかしその第三者がシステムやアルゴリズムに集約されるとなると、印象は変わってくる。それは乳化ではなく画一化への恐れなのかもしれない。気分によるフィルター、意地による計算ミス。それらは人間への最上の賜物なのだと思う。ある書に「芸術の一回性」という言葉を見つけた。まさにこのようなことだと思った。

風来人の気質を持つ僕に、庭付き一軒家が欲しいといった欲求は乏しい。
でも庭は欲しいと思わないこともない。ただ土地に縛られるのはやはり苦手なので(結局自分が実生活で手間隙かけることを最も嫌がっている)、今は持っていない。代わりに心の造園をしているのだ。そこには毎日違う光景が見える。育った種や苗もあれば、育たずに植えたことさえ忘れ去られたものもある。剪定は失敗が前提だ(笑)。しかしその時その時の一回性を楽しむことは、僕の最大の贅沢だと思っている。

このエッセイを書くにあたって、ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』を久々に開いた。

農夫のまねごとは、遊びであるうちは好ましいことであったが、習慣となり義務になってしまうと、その楽しみは失われてしまった……。

ヘッセさん、そんなことを書いていながら、あなたは晩年までずっと庭仕事をしていたじゃない。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!