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11. 潜入諜報活動員(アルタ②)【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。
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【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
魔神シヴァを射る宿命を背負った愛神カーマの化身の1つ。ウッジャイニーに住む司祭バラモンの子息。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。ヴェーダを学ぶためにアビルーパの家に出入りしている武士クシャトリヤの子。

ダルドゥラカ
商人ヴァイシャ家系の子息。ヴァサンタと同様にアビルーパの父のもとでヴェーダを学んでいるが、その正体は……

【前話までのあらすじ】

魔神シヴァを射る宿命を背負った愛神カーマはバラモン家系の子息アビルーパとして転生し、シヴァを射るための3本の矢を捜していた。朝の礼拝の後にダルドゥラカという名の商人ヴァイシャの子に言い寄られるが、親友ヴァサンタは彼のことを「王国の諜報活動員スパイだ」と詰問したのだった。

11. 潜入諜報活動員(アルタ②)


諜報活動員スパイだって? この人は父の弟子だぞ。いったい何を言ってるんだ、ヴァサンタ」アビルーパはあざけるように言って、親友の顔と、嫌疑をかけられた男の顔とを交互に見た。確信に満ちた目を向けるヴァサンタ、そっぽ向いたままでいるダルドゥラカ。友のことを一笑した自分が滑稽に思えてきて、アビルーパは押し黙った。
「沐浴のときに見たんだ。君の内腿には焼き印があるね。犯罪か人身売買の痕跡かと思ったけど、あれってグプタ朝の王家の紋章でしょ?」ヴァサンタは言い逃れのできない物証を突きつけ、追及の眼差しを強くした。そして状況を飲み込めずにいるアビルーパに説明するように続けた。
「おそらく逆スパイ対策……王国に反旗を翻そうとするスパイと峻別するために……」それを聞いているアビルーパの思考は、ヴァサンタの追及より、ダルドゥルカの内心より、二歩も三歩も遅れていた。しかしつい先程、礼拝の後に交わした会話の中にあった違和感や不穏が、ダルドゥラカが諜報活動員スパイである一点で説明がつくことを見取り、その男を見る眼差しは段々と親友のそれに近づいていった。

 ダルドゥラカが俯いた顔を上げると、そこにはすでに観念の表情が浮かんでいた。
「ちっ。ジーのガードが堅いからなまくらな息子に近づいたってのに。どうやら優秀な側近がついているようだ。見つかったのは幸か不幸か……下手な動きをする前でよかった」長身の男はアビルーパらと目線を合わせることなく独りごちた。その態度には先ほどまでのうやうやしさの痕跡すらなかったが、自白によって3人の周りに張り詰めていた緊張がすこし緩んだ。ちょうど川岸と町の間が白みはじめ、大気があたたかさを帯びてきた。
「いや、やっぱりよく分からない。王国の諜報活動員スパイがどうしてうちの僧団なんかに潜入する必要があるのか」アビルーパの頭の中はまだ混乱していた。同じ疑問をヴァサンタも抱いていたので、ふたりはさらに追及するように男の顔を見上げた。
「……しょうがないな、世間知らずの坊やに教えてやるよ」ダルドゥラカはそう言った後でため息をひとつ漏らした。そして左手の親指を立てて《帰ろうぜ》というような素振りを見せ、ひとり歩き出した。アビルーパとヴァサンタはいちど顔を見合わせて、ダルドゥラカの後をついて行った。

「『アルタ・シャーストラ』は知ってるか? かつて栄華を誇ったマウリヤ王朝の名宰相カウティリヤの残した書だ」アビルーパは首を横に振り、ヴァサンタも軽く傾げた。
「王権を確固たるものにするために記されたものだ。そこには絶対王政を維持するためには諜報活動員スパイをうまく活用すべきだと書かれている。王が任命したスパイたちは、学生、修行者、商人、奴隷、遊女、あらゆる姿をとって市井に潜り込み、市民を見張っているのさ」ダルドゥラカはふたたび親指を立て《俺みたいにな》と自身の逞しい胸を二度つついた。
「俺たちは貧困に陥った者や王朝に不満を抱く者を拾い上げて高官に報告するんだ。そうして奴らに衣食住をあてがい、場合によっては金を握らせ……黙らせる」
 それはきな臭い話ではあったが、アビルーパとヴァサンタは信じざるを得なかった。貧困に飢餓、差別や暴力、賄賂は俗世に横行しており、静謐なバラモンの生活とてそれらと全く無縁ではなかった。そんな世の中でも現王朝の内紛はさほど多くなく、憤慨が芽のうちに摘まれているというダルドゥラカの説明には説得力があった。
「俺の一家は元々、首都パータリプトラで商売をしてたんだ。3年前に生計が破綻してさ。家族全員、高官に呼ばれて、あれよあれよという間にコレをつけられちまったってわけ」ダルドゥラカはそう言って立ち止まると、腰巻をまくり上げて内腿を晒した。そこには確かに赤褐色の小さな印が押されており、アビルーパも目にしたことのある現王朝の紋章と形が一致していた。
「ところで、お前、ちっこいの!」ダルドゥラカはヴァサンタを見下ろして言った。
「こんな際どいところにあるのをよく見つけたな。いったいどこを見てんだか」と、にやりと笑いかけたが、ヴァサンタは《別に》と取り合わなかった。

 身の上話を聞いたせいか、秘密を共有したせいか、3人の間に妙な結束が生まれているのをアビルーパは感じていた。2人ではできないことでも3人なら……そして思案のうちにふと閃いた。
「やっぱり諜報活動員スパイの情報網ってすごいのかな?」アビルーパの漏らした言葉に、ヴァサンタは反射的に眼を輝かせた。
「それだよ、アビルーパ! 諜報活動員スパイの情報を頼りにアレを探せばいいんだ!」ふたりは顔を見合わせて頷いた。
「ねぇ君、僕たちに協力してよ」ヴァサンタは手のひらを返すように猫撫で声を上げ、上目遣いで男の顔を見据えながら身を寄せていった。ダルドゥラカは訳がわからずにたじろぐ。
「な、なんだよ、急に、気持ちわりぃ……アレってなんだよ? そんな易々と情報は売れねえよ。こう見えても王に養われている身なんだぜ。それに……俺はさて置いて諜報活動員スパイはみな口の堅い連中ばかり……」そこまで言いかけたところで、年下の男2人が行く手を塞ぎ、薄笑いを浮かべているのを見て、足を止めた。
「僧団の名簿くらいなら渡せるぞ?」
「僕も父の帳簿をくすねてこようかなぁ〜」
 取り引きを持ちかけてきたふたり。どちらもダルドゥルカにとって願ってもない情報だった。しかしこのとき場を支配したのは、互いの損得勘定ではなく《なんとなく退屈な日々を打破したい》という若者たちの心底に絶え間なく流れている感情の方だった。


── to be continued──


【簡単な解説】
本作はインド神話をもとにした創作ですが、この『アルタ』の章では史実と交錯しながら物語が進んでいきます。

マウリヤ王朝
紀元前4世紀〜前2世紀にインド亜大陸ほぼ全域を支配したインド最初の統一王朝。もっとも有名な王としてアショーカ王がいる。彼の治世に反乱と静粛を繰り返しながら領土を拡大し、統治体制を固めていった。そのために多くの人命が犠牲になり、アショーカ王は贖罪のために仏教に帰依したと伝えられている。

カウティリヤ/『アルタ・シャーストラ』
カウティリヤは古代インドの宰相・軍師。マウリヤ王朝初代チャンドラグプタ王の勢力拡大をたすけ、政治顧問の役割を果たしたと伝えられる。『アルタ・シャーストラ(邦題:実利論)』は王政の実利(アルタ)を説く論書。紀元前4世紀頃にカウティリヤによって著されたと伝えられているが、史実かどうかは明らかでない。国家の利益を重視する政治思想は、しばしばマキアヴェッリの『君主論』と比較される。

諜報活動員スパイ
『アルタ・シャーストラ』の中に登場する、王国の維持のために諜報、暗躍を任命された集団。弱肉強食の世にならないようにするには王国による絶対統治が必要、という思想のもとに生まれた。定住スパイと移動スパイがいたと伝えられる。作中にもあるように、スパイは貧困者や社会的弱者を財物や名誉でもって助けたとされるが、その一方で、理由なく憤慨する者や王に敵意を抱く者に対しては毒殺が許されていた。

グプタ朝
紀元後4〜後6世紀にインド北部・中央部を統一した王朝。首都は北東部、ガンジス川湖畔の都市パータリプトラ。本作の時代はこのグプタ朝が隆盛を極めた後4世紀。

参考・引用文献)
渡瀬信之 訳『マヌ法典』平凡社
上村勝彦 訳『実利論(上)』岩波文庫

【ご注意】
本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。また時代背景や史実とは異なる点も多々あり、あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。

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