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伝説の武器は嫌いだ、僕は棍棒を振り回したい 【エッセイ】

通勤に車で1時間ほどかかるため、車内ではYouTubeを音声のみで流していることが多い。お気に入りやおすすめがランダムで流れていくのだが、往年のゲーム解説がよく出てくる。「伝説の武器◯選」とか「入手困難な武器◯選」とか。

7歳頃に家庭用据え置きゲームで遊び始めて、高校卒業と共にやめているのでおよそ10年弱。その頃、友人たちとゲームの話をするたびに妙な違和感を覚えていた記憶がある。
僕は周囲の子どもたちと違って、伝説の武器、強い武器にあまり興味がなかった。もちろんゲームはクリアしたいのだが、強さを追求するような王道の遊び方を歩まなかった。

ファンタジーの世界で特に心を惹かれていたのは僧侶・神官の属性だ。有名どころで具体例を挙げるならドラクエⅣのクリフト。神に敬虔な祈りを捧げ、その力の一部を拝借して戦う神官。彼には神の他に仕える王女がいて、その態度も恭しく懸命なものだ。

RPG内の「神」は本当の意味での神ではない。

これはずっと考えていたことで、実際クリフトひとりでは魔王は倒せないし世界は救えない(縛りプレーは例外として)
ファンタジー世界での神とは主人公の奮う「力」である。それは遠目に見るとかなり暴力的だ。「暴力×正義」がその世界の支配者となるのだ。そして「暴力×正義」を賛美し、力を与えてくれる象徴的存在が「伝説の武器」ということになる。

なぜ僕が「伝説の武器」に興味を持たなかったのか、それは僕に圧倒的に力属性がなかったからだろう。子どもながらに、力以外のもので戦っていくという予感がしていたのだ。

さらにここから分岐する。「暴力×正義」で戦うことを諦めた少年たちはどこへ向かうのか。
ひとつは正義を諦めて邪神の力を借りる。これは厨二病ルート。魂を売る代わりに力を得る少年たちのことだ。
もうひとつは暴力と正義を包括する別の観念に寄り掛かる。これは耽美ルートが典型的だと思う。美しいものを美しいということで、力も正義も無力化する別次元の暴力を発揮する。
こうして「真善美」のベクトルが出来上がる。

ピンと来た方もいるかもしれないが、これらはそのまんま『幽☆遊☆白書』の構造だ。「暴力×正義」の浦飯幽助、邪神に心を売った飛影、美を余すとこなく漏らす蔵馬、そしてどのルートにも向かわなかった一般人代表の桑原和馬。彼には人間臭さと努力があてがわれた。本当に素晴らしいキャラクターデザイン。

話を『幽☆遊☆白書』の分岐前まで戻そう。たとえ正義があっても暴力を認めないという選択をした人たちは、愛をその寄る辺とするのだろう。「愛と正義」だ。つまりセーラー服美少女戦士セーラームーンに分岐する。セーラームーンも敵に暴力を働いているが、最終的には「浄化」を選び、その本質はやはり「愛」なのだ。

分岐はずっと続いていくものだが、幼少期に好きだったキャラクターや属性は、選んできた生き方を象徴している。90年代のアニメ・ゲームに浸った僕と、00年代10年代のファンタジーを楽しんできた人たちは精神構造も多少違うのだろう。

僕が好きだった僧侶・神官属性は、敬虔と勤労と禁欲の3Kの態度で構成される。信仰や宗教からこういった態度が生まれるのは割と必然的で、イスラームの理論(あくまで理論)を援用するなら神との垂直的関係、信徒間の水平性で説明できるだろう。
神は絶対的存在で、神以外に評価基準を持ってはならない。その神の下ではみな平等であるべきだ。平等であるために、各々の能力で労働に勤しみ、平等の破滅を招く欲を持たずに生きよう、ということだ。

これはあくまで宗教の原始的体系のごく一部に過ぎず正解でも理想でも何でもない。何を大事にするか、何で生きていくかは100人いれば100通りの答えがある。
僕の中にだって暴力的な人格はある。最近はトロルになって棍棒を振り回したい衝動に駆られる。もちろん実践したことはないしする気もないが。

暴力に正義を掛け合わせたくないのだ。暴力は暴力、伝説の武器なんて嫌いだ。
醜い姿で本能の赴くままに棍棒を振るトロルの方が、よほど愛らしいではないか。

恒例の書き殴っただけの日記です。政治的信条についてメタファー以上の要素を含みません。

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