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オーバーレイ─みんなグッジョブだよ─

*本記事はネタバレを含みません*

作家読み、というものをあまりしたことがない。そのためか文学好きの方と話をする際に気後れすることがある。作家固有の主題や文体や、皆さんとても詳しくてただ驚くばかり。それはもちろん読書量の賜物であり尊敬に値するものだ。
一方で僕の読書経験は、面白い作品を読んだらたまたまその作家だった、装丁の素敵な作品を見つけたらたまたまその作家だった、程度で、作家と作品の間に緊密な関係を築いていないことがほとんど。

そんな中で、ああこの人は僕にとって面白い作品を書いてくれる!という信頼を寄せている作家が綿矢りささんである。彼女の小説は激しい。多くの場合、心情の激しさは物語の激しさとある程度リンクするところがある。しかし彼女の作品は、日常にありうる瑣末な出来事を、語りのみで激しく照らし出す。文庫本のどこを開いても、その語りの魅力に圧倒され読まされてしまうのだ。

読書は一種のトリップ体験を含んでいる。もちろんそのような体験は彼女の小説にも多分にふくまれているが、それ以上にオーバーレイの体験が大きいと思っている。現実の事件と小説の事件、現実の心情と小説の心情──これらは現実と小説の時間と言い換えても良いかもしれない──が分離されることなく、様々な明度と距離を醸しながら物語が進んでいく。

自分の両眼と、手に持つ本に書かれたテクストの間には物理的な距離がある。僕の場合は40-50cm程度。この間のどこに小説の時間が流れているだろうかと考える。意識が離脱して小説の中へと入っていくものがある。その先に突き抜けているものもある。自分の頭の周りでグルグルしているものもある。綿矢さんの作品には、目元と手元の間で振動する奇異な時間感覚を感じるのである。その振動が、自身の中に様々な体験や心情を呼び覚ましたり、新たに創造したりする。それは共感などという矮小な効能ではなく、激しい運動なのだ。

先日、映画化された『ひらいて』を観てきた。綿矢さんの小説が一人称の語りを含みながら展開していくことを知っていたので、一体どんな映画になったのか気になっていた(半ば不安だった)
結論から言うと、非常に素晴らしかった!
まだ若手と呼ばれるメイン3人(山田杏奈さん、佐久間龍斗さん、芋生悠さん)の俳優陣。それぞれが原作の登場人物のことを深く理解し、言外の表現に苦心されてきたことがよく伝わってきた。
特に主演の山田杏奈さん。女子高生のリアルとラディカル、主人公・愛のもつ危うさ、自意識と無自覚の表裏……テクストで表現するのも非常に困難を伴う役柄を、表情や仕草や声色で見事にやってのけた。感動した。
映画制作のことは詳しくないが、脚本、撮り方、演技指導なども素晴らしいものだったのだろう。監督の首藤凜さん、ウルトラミラクルグッジョブです(๑•̀ㅂ•́)و✧グッ!(え、、、26歳?、、、末恐ろしい)

単純に二分できるものではないが、やはり映画には興行と芸術の二種がある。もちろん興行で芸術を表現するし、芸術は興行になる。僕は両方いっしょくたにして楽しく鑑賞する。しかしこの翌日まで続く高揚感、それがまだ続いていきそうな予感は、映画『ひらいて』が芸術であったことの証であるように思える。芸術の時間はトリップして帰ってくるだけのものではない。これからの自身を取り巻く現実とオーバーレイしながら続いていく。


《蛇足》
小説と映画をミルフィーユするのはオススメです。小説→映画→小説→映画……騙されたと思って、まずやってみてください。それで確実に二往復できますから(◯◯◯構文)

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!