小説『あれもこれもそれも』4-8
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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -8
そしてまたリハビリ。平行棒の中を歩く老人は、いつまでもその領域から外に出ようとしない。瞼の形も一切変化しない。例え連続して何往復も歩けるようになったとして、彼が何か達成感を得て、その先のステップへと進もうとするとは到底思えなかった。
そう、いくら反復しても上手くならないことがある。仮に上手くなっても、努力と成果の釣り合いが悪いこともある。壮年の俺にだって当然ある。例えば……人に与えようとすることもそうだったのか? いや、俺は確かに与えようとした。愛そうとした。
〔断片〕
事件の当日に松田と拓人は岬にドライブに行っている。そこで大海原を眼前に置き、拓人は健斗について話した。
「僕が健斗を憎んでいるとしたら、単に羨ましいからだと思います。彼の価値基準と、世間一般の価値基準がそんなに違わなかったら、自分のことや自分の世界を疑わないで済むじゃないですか。同じような人が集まれば、その周辺で隠れて生きている人間のことなんて簡単に無視していられる。いや、気付く必要すらない。しかもそういう人に限って、自分の世界の中のレースに関係ない人を巻き込んで、勝手に敗者にして見下したりするじゃないですか。健斗には、何となくそういう雰囲気を感じちゃったんですよね。同じ店で働いていて、距離が近かったから、余計……」
松田は静謐な海と対峙しながら拓人の言葉を聞いていた。視線を向けることも、耳をそばだてることもなく、青年の存在を横にただ感じながら。実は「君は気付いてほしいのか?」という台詞を必死で飲み込んでいた。またその背中に触れてみたくなり一度右腕を伸ばしたが、それも思い直してすぐに引っ込めた。
青年は毅然として水平線の先を見つめていた。それは松田にとっていわくつきの力ない笑顔だったが、横顔は夕陽を背景に美しく映えた。こんな美しい顔に見つめられても平然と横たわる海が残酷に思えた。
松田は自分がこの青年の絶望に対して何もしてやれないことを恥じた。それどころか、この青年の感情の矛先にすらなれない自身を、惨めに感じた。これらは、健斗への嫉妬の感情を伴ったのだ。憎まれることすら羨ましく思えていた。目の前にいるのに違う世界に生きている青年の、感情の客体になってみたいと切に願った。
そして、このとき松田に啓示がおりてきた。拓人には憎悪の成就が、健斗には完全な挫折が必要なのだと。それらを『与える』ための呪いの儀式を自分が行うべきなのだ、と。
儀式の準備は既に整っていた。それは早希が何も知らずに整えていたのだった。
拓人は松田が自分に好意を抱いていたと証言したが、事実として松田は同性愛者ではない。しかしどうしてか、彼の携帯電話には同性愛者向け出会い系アプリの使用履歴がある。
松田のプロフィール欄には、裸の画像だけが登録されていた。それは彼の容貌とは全く違っていて、明らかに若いスポーツマンの裸体だった。見事に割れた腹筋に、よくよく鍛えられた太ももが印象的なものだった。顔の写真は載せられていなかった。このアプリの中では当然のことだが、誰もが偽名を使用している。そして、松田が使用していたハンドルネームは『KNT』であった。
同じアプリを拓人が利用している。そして事件の数日前から『KNT』とメッセージのやりとりをした形跡が残されている。
KNT〈はじめまして〉
tak 〈はじめまして〉
KNT〈お前、同じ大学の槙島だよな?〉
tak 〈いきなり何。バラすとか言って、
脅すつもり?〉
KNT〈まさか。
俺、お前のこと前々からタイプ
だったからさ。1回だけやろうよ。
ホテル代出すし〉
tak 〈さすがに初対面でホテルって〉
KNT〈うちらチャンス少ないじゃん。
楽しもうよ。秘密厳守するし。
嫌だったら全然帰っていいよ〉
(ここでしばし間隔が空いている)
tak 〈会ってから考えるでもいい?〉
KNT〈いいよ。7日にホテル・パダンは?〉
tak 〈了解〉
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