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小説『あれもこれもそれも』4-4

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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -4


 朝が来て、食事が運ばれてくる。食パン、半分にカットされたバナナと、モヤシを茹でて醤油だかポン酢だかをかけただけの食事に一気に気持ちが萎えた。鈴木から「明日から常食にしますね」と昨日言われていた。
 ここにきて初めて知ったことだが、常食とは病院で用意される食事の中で、最もランクの高いものだ。他には塩分や糖分がだいぶカットされているものや、ミキサーにかけられているものもあるらしい。〈常〉が最も豪華だとはまるで禅宗ではないか。
 昨日までは『喉のために』といって、刻みすぎて原型を留めていないしょっぱいスムージーみたいなものを食していた。だから少しばかり〈常食〉に期待を寄せていたのだ。それは見事に裏切られたわけだが、アプリコットとリンゴの2種類のジャムが付いていたことに少しだけ慰められ、その期待は昼食へと持ち越された。

 相変わらず窓際の2人は押し黙って、ひたすら口をもぐもぐさせていた。皆、朝の渇いた口内の水分を奪われている。反復する口の動きは、彼らと俺の間に、不思議な同胞意識のようなものを芽生えさせていた。

 向かいのベッドの若者は終始独りで喋っていた。高校2年生であることや、7回目の入院であること、ありふれた両親との葛藤で精神に不調を来していることなどが、その演説の内容だった。矢継ぎ早に話すものだから松田がまごついていると、窓際の将棋本の老人がようやく口を開き「無視して頂いて結構ですよ」と助け船を出してきた。
 高校生は自身のことを散々話しきったあと、食事も終盤にさしかかったところで「おじさんはなんで入院してるの?」と質問を投げかけてきた。哲学書の男が、さすがにその言葉は受け流すことはできないといった様子で「おい、黙って食え、ガキ」と窘めた。


〔断片〕

 ラウンジ〈つれづれ〉。もともとは旧い歓楽街・肴町にあったが、耐震基準の関係から1年ほど前に新しい歓楽街へ移転した。そのタイミングに合わせ、求人情報誌に1度だけ男性ホールスタッフ募集の記事が掲載された。それをきっかけに働きはじめたのが、健斗と拓人である。偶然にも同じ大学に所属する2人は容姿も性格も全く違っていて、肴町時代からの常連客たちは〈つれづれ〉の変革とデコボコな2人の青年の登場を楽しんだ。
 そして〈つれづれ〉での松田浩之の評判はすこぶる良かった。若いのに酒の楽しみ方を知っていて、定期的に店に足を運んでは、誰に嫌な思いをさせることもなく、時間を楽しんで帰って行った。何より物知りで話題が豊富だったから、スタッフたちは接客する度に何かしら学べるところがあると喜んでいた。

 しかし事件後によく話を聞くと、ママには松田に関して1つだけ、些細ではあるも気になっていたことがあるそうだ。それは店のピアノの演奏に関することである。

 ある晩のこと。フロアからカウンター内に戻ってきた拓人が、店内の音響のミキサーを操作すると、それまでかけられていた軽妙なジャズがフェードアウトしていった。ボリュームが完全にしぼりきられても、松田の脳内ではしばらくの間その余韻が微かに響いているようだった。
 しかし甘美な倦怠を打ち砕くように、突然ピアノのカン高い音が鳴る。夜が閉じ込められた空間に、不用意な音が舞い込んだ。
 松田が後ろを振り返ると、他の客たちの間に、アップライトピアノを弾き鳴らす女性の後ろ姿が覗き見えた。
——また嫌な選曲だな。
 松田はすっかり不機嫌になってしまった。ため息をひとつついて、頬杖をつき、その演奏を見下ろす。
——あざとい曲を持って来やがって。さりげなく「すごい」って言われたいのが見え見えだ、あの二流音大卒め。
 悪態を心の中に並べ立てながら、他の客の様子に目を向けた。会話に夢中で店のBGMが変わったことを意に介していないものたちがいる一方で、なかにはその難解で美しい調べにうっとりしているものもいた。松田は舌打ちをして、再び酒に向き直った。胸の内を真黒く染めていながらも、表情1つ変えずに。しかしそのことに気付く者が1人だけいた。

「ごめんなさいね、浩之さん」
 松田が顔を上げると、そこにはオープンの時間から変わらず精彩を欠かないママの表情があった。
「ああ、すみません。態度に出ていましたか」
「いいえ。あとで彼女には曲の選び方に関して言っておくわね」
「いや、いいんだ。それより拓人くんと言ったかな? また彼のピアノを聴かせてくれよ。巧くはないけど、あれこそが良い音楽だよ」
「浩之さんの言う良い音楽って何かしら?」
「そうだな……聖地のようなものかな。軸がブレそうな時とかに……いや、長くなりそうだから、またいつか、ゆっくり話すことにするよ」
 そう言って、ジャケットの内ポケットに右手を差し込む。ママは軽く困り眉を作ってみせ、遠くで氷を取り替えている拓人に視線で合図を送った。
「またのお越しをお待ちしております」
 ママは深々とお辞儀をして、その場所を拓人に譲った。伝票を取り出し会計を計算する青年は、自分のことが話題に出ていたことに気付く様子もなかった。
 そして支払いを済ませ店を出る松田を、ママと拓人で見送った。

「珍しいですね。松田さんがこんな早く帰られるのは」
 松田の姿が見えなくなってから、拓人はそう呟いた。自分の接客に不手際がなかったか心配になっていたのだ。
「そうねぇ。浩之さんは……男の人よね」
 ママの言った言葉を、拓人はよく理解できなかった。
 夜風と孤独で機嫌を取り戻した松田をよそに、店内ではまだクラシック曲がその場を盛り上げていた。


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