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13. 火葬場の暗号(アルタ④)【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。
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【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
魔神シヴァを射る宿命を背負った愛神カーマの化身の1つ。ウッジャイニーに住む司祭バラモンの子息。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身でアビルーパの親友。ヴェーダを学ぶためにアビルーパの家に出入りしている武士クシャトリヤの子。

ダルドゥラカ
商人ヴァイシャ家系の子息で、グプタ王朝の諜報活動員スパイ。シャイシラカ・アビルーパの僧団に潜入していた。

【前話までのあらすじ】

シヴァを射るための3本の矢を捜していたアビルーパとヴァサンタ。諜報活動員スパイとして僧団に潜入していたダルドゥラカを仲間に加え、名うての情報屋がいると言われる首都パータリプトラにやってきた。全身に灰を塗りたくって聖者に変装した3人だったが……


13. 火葬場の暗号(アルタ④)


 諜報活動員スパイ集会所アジトは川沿いの火葬場にあった。見渡す平地には、小児の身長ほどある薪を円錐状に組んだ火葬炉が、ばらばらに設置されている。そのいくつかには赤い色が灯り、風が吹くたびに内側から燃え盛る火焔が顔を出した。地面の土はほのかに白く、炉に近づくほどに白が強くなる。灰が大地を染めているのだった。
 市街地から帷子かたびらくるまれた遺体が運び込まれるのを何度か見届け、これには3人も忌みの情を感じざるをえなかった。ヴァサンタはそこに入ることを散々嫌がったが、アビルーパの懸命な説得により、しぶしぶ了承したのだった。
「ここからは喋るなよ、諜報活動員スパイ同士は言葉を交わさないことになっている」ダルドゥラカは顔を前に向けたまま、口をあまり動かさないようにして告げた。火葬場の惨状と相まって緊張感が高まっていく。先頭のダルドゥラカの歩みは決して速いものではなかったが、アビルーパとヴァサンタはついていくのに苦心した。緊張と恐怖心と、時折足裏で踏みつける薪の感覚に阻まれ、たびたび歩みが止まった。

 最奥の炉の傍まで来た。火葬が終わろうとしているところなのか、その炉中に火の色は見えず、もくもくと白い煙が立ち上っているだけだった。
 火の番、という表現が正しいかどうか、ひとりの男が坐法アーサナを組んで何やらブツブツと唱えていた。あばらが浮き出るほどに痩せこけた老人。髪は腰まで、髭は胸まで伸びて汚らしく、衣の代わりに、その身はすべて灰によって覆われていた。アビルーパたち3人の変装が模造であることが明らかなほど、それは鬼気迫る様相だった。スジまであらわになった内腿にはダルドゥラカの持つ諜報活動員スパイの証と同じ紋章が刻まれている。
 近づくと、韻律のある語がたびたび耳を突いてきた。老人が唱えているのは真言マントラであった。しかし公用語サンスクリットではなかったため、アビルーパとヴァサンタにはどういったたぐいの呪詛かまでは分からなかった。

 ダルドゥラカだけはその真言マントラの真意を理解していた。言語としての意味、宗教的な意味を超えて、それは諜報活動員スパイ同士の暗号になっていたのだ。
《ダルドゥラカ、久しぶりだな。元気にしていたか?》老人は気配で3人の到来を察知して、目を閉じたまま真言マントラでそのように告げた。ダルドゥラカは彼の前まで来て同じ形で座し、合掌して一礼した。アビルーパとヴァサンタは戸惑いつつもそれに続いた。
《ひとりではないようだな、高官にバレて誅殺されたとしても誰も同情してくれないぞ》老人は朗誦の声をやや強くして言った。ダルドゥラカはふたたび恭しく礼をして、彼もまた真言マントラで応えた。
《信頼に値する者たちです。彼らの捜し物を手伝うために、あなたの力をお借りしたい》
《信頼……この場にはもっとも相応しくない言葉だ。いつもなら笑い飛ばすところだが、つい先日、わしのところに妙な神託があってな。信仰などとうの昔に捨てたというのに》老人の目がゆっくりと開いて、ダルドゥラカの後ろにいる2人の姿を見据えた。
《その者たちは神の使いか》
《ええ、信じがたいのですが、そのようです》
アビルーパとヴァサンタはそれが何かしらのやり取りであることに薄々気づきながら、ふたりの真言マントラの応酬を見守るしかなかった。

《彼らは矢を捜しております。神の力の宿りし、神の力を打ち破る矢を》
《矢……か。神託の通りだな》
 老人は右手を差し出し、足元の灰の山を手のひらでならした。そして人差し指で「コーラム」のような幾何学模様を描いていった。
 老人は彼らが捜している矢がどこにあるかを、あらかじめ知っていた。それはあくまで諜報活動員スパイの情報網により得ていたもので、神託は彼らに情報を渡すきっかけとなったに過ぎない。当然、彼には諜報活動員スパイのルールを遵守して依頼を捨て置くという選択もあった。しかしめったに夢見のない彼がある晩に見た神話の一場面で、矢をつがえた弓を引いていたのは紛れもなく目の前にいる男アビルーパだった。老聖者のもとに訪れた神話の主人公は、シヴァでもなくヴィシュヌでもなく、愛神カーマだった。社会に組み込まれた信仰を過去に置いてきた男は、アビルーパの姿を目の当たりにした瞬間、物語と偶然性とに身を委ねることを決めたのだった。

 模様を描き終わり《あとはお前たちで考えて行動しなさい》と真言マントラで告げると、老人は目を閉じ、深い瞑想へと入っていった。
 ダルドゥラカはその模様が何を示しているかを見て取り、三度目の礼をして立ち上がった。アビルーパは思わず「ありがとうございます」と小さく口に出してしまったが、それに老人が反応することはなかった。3人は炉を後にして来た道を帰っていった。周囲に悟られないよう、それぞれ微妙な距離を取って。

 火葬場からやや離れた河岸で、変装を落としながら3人はようやく言葉を交わした。
 ヴァサンタは粉まみれの体を流水に浸しながら「ふぅ、気持ち悪かったぁ〜。ねえ、僕たち黙って後ろに付いていただけだし、変装も潜入もダルドゥラカひとりで良かったんじゃないの!?」と溜まっていた不満を漏らした。
「……いや、たぶん俺ひとりじゃ教えてもらえなかったよ」うなじを掻きながらダルドゥラカは言った。
「それで、ダルドゥラカ、何か分かったのか?」待ちきれなくなったアビルーパが問いただした。
「ああ、捜し物の矢は、王宮の宝庫にあるそうだ」ダルドゥラカがそう答えると、アビルーパとヴァサンタはますます困難を極めそうな予感がして、そろって眉尻を下げた。しかしダルドゥラカは好奇心に満ちた顔で、自信に溢れた声を張った。
「よし、作戦会議だ!」


── to be continued──


【簡単な解説】

 今回は、正統な信仰を捨てた聖者が実は名うての情報屋で、ダルドゥラカたちを助けてくれる話でした。
 しかし『アルタ・シャーストラ』の記述によると、聖者に扮した諜報活動員スパイにはむしろ犯罪者の詮議の任務が与えられていたようです。彼らは、呪術や真言を好む犯罪者を誘惑し、一処ひとところに囲い込み、言葉巧みに言質を取った。つまり信仰心を利用して犯罪者をおびき出し、警官に売っていたそうです。
 また諜報活動員スパイ同士は暗号文でやり取りをすべき、互いに知り合いになってはならない、などの取り決めも書かれております。

 『アルタ・シャーストラ』は、帝王学のみならず、行政や司法制度に関しても詳らかに書かれている書です。それらが実情を写したものか、理想論に留まるものかまでは分かりませんが、当時の風俗を知る貴重な史料であることは言うまでもありません。今回、小説を書く資料として改めて読んでみて驚きました。古代インドにおいては、宗教書、論書、科学書や占星術書、戯曲や詩などの文芸作品など、さまざまなジャンルの書物が伝えられていますが、当時の文化をこれほどまで生き生きと教えてくれる書物は他にないように思います。

引用・参考文献)
上村勝彦 訳『実利論(上)』岩波文庫

【ご注意】
本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。また時代背景や史実とは異なる点も多々あり、あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。

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