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牧歌【エッセイ】

積読(つんどく)が増えている。一方で過去の膨大な積読の山から役立つ本が出てきたりする。これだから積読はやめられない。コ口ナ禍で図書館に行けなくなり、家に増えていく一方だ。

ある日(積読を増やすために)書店に足を運んだ。僕の住んでいる市にはなかなか充実している書店が1軒だけあり、田舎暮らしの退屈を慰めてもらっている。その日も思想哲学のコーナーを何往復もしており、シリーズになっている伝記の書棚で何冊か見繕っていた。ハンナ・アーレント……シュニッツラー……

ふと目に留まった名前があった。「トマス・ハーディ」文字からとても懐かしい匂いがした。でも僕はこの名前を知らない。見たことがある気がするが、頭の中をほじくり回してもその名前はどこにもなかった。デジャヴに近いものだろうか。かくして僕は探していた一冊を諦め「トマス・ハーディ」の伝記を手に取りレジへと向かったのだ。

これを書くのも何度目かになるが、書店に足を運ぶと「わたしを買って」という本に出くわすものだ。輝いていたり、囁いてきたり、あらゆる手段で気付いてもらおうとしてくる。『不思議の国のアリス』に出てくる「わたしをお食べ」は現実にあることなのだ。

トマス・ハーディは19世紀半ば〜20世紀を生きたイギリスの作家(小説家・詩人)だそうだ。伝記を途中までしか読んでいないので代表作は知らない。彼の生きた時代は、ダーウィンの『種の起源』をめぐってキリスト教への懐疑が湧き起こった時期、産業革命により隆盛を極めた大英帝国に翳りが見え始めた時期、女性の地位向上運動の萌芽が見え始めた時期に重なる。そんな時代に彼は、故郷の自然を愛し、生涯の大半をそこで過ごした。彼の著作には牧歌的世界が映し出され、自然・動物に寄り添い、立場の弱い人々に同情を寄せ、特権階級への怒りを表現した物語を書いたそうだ。

牧歌と聞いてどんな世界を思い浮かべるだろうか? たぶんこれは少数派ではないと思うのだが、僕はアニメ「世界名作劇場」の映像が牧歌のイメージに近いと感じる。そもそもヨーロッパの都市部以外を映像で見る機会は少ない。少なくとも自分の幼少期はそうだった。そんな中では「世界名作劇場」はイメージの最大公約数として妥当な気がするし、「サウンドオブミュージック」などの映画に登場する田舎の光景は、「世界名作劇場」の作画が真実の模写であることを確信させるだろう。

トマス・ハーディの作品をまだ読んでいないのでなんとも言えないが、イギリス海峡を臨みながら、豊かな森林に溢れるドーセット州、その光景を胸に膨らませながら、彼の著作に触れる日を楽しみに待っている。

前置きが長くなった。
空から降ってくる、足元に落ちている、本の片隅から液晶の端っこから掬い取った、夢に現れた……さまざまなイマージュの断片が揃ったとき、思わぬ記憶が呼び覚まされることがある。記憶が呼び覚まされると一気にパズルが完成した気になり、こういったエッセイを書けたりもする。

自身の処女作のことだ。おそらく10代前半に書いた小説、ルーズリーフで2-30枚だったが残念ながら未完で終わっている。
リザ・テツナー『黒い兄弟』(アニメ「ロミオの青い空」)をパクった(模したとは言わない)ようなもので、欧州の田舎で育った少年が家族でない大人に連れられて都市部に移り住む物語だった。『黒い兄弟』では主人公が奴隷として売られていくのに対して、僕の処女作では夢を支援されて移住するという、どデカい違いはある。しかし田舎の牧歌的世界と未知である都会への憧れのあわいを(意識が)行き来する点で、共通していると言ってもいいかもしれない……(いや、だめか?)

なぜ、未完で終わったのだろう。筆力も、想像力も、調査力もゼロに近かったから、頓挫して当然と言えば突然なのだが、おそらく、そこにもイマージュの断片が関わっている。

……森……泉……ユニコーン……

タレントの森泉ではない。アーティストのユニコーンでもない。しかし彼らを思い浮かべなくても、変なことを言い出した僕に困惑した人は多いと‪思う。
実は小説執筆の中で、田園風景と都会を(意識が)行き来していると、どうしてもこれらの幻想的なイメージが湧いてきてしまい、都市部での事件の描写を邪魔してくるのだった。夢オチでも何でもいい、どうにか「森林の真ん中の泉のほとりで休むユニコーン」を登場させようと四苦八苦するも、そんなものは土台無理な要求だったのだ。だって明らかに小説内に不必要なのだから。そうこうしているうちに纏まらなくなって、書けなくなって、筆を置いてしまったのだろう。処女作完成の壁となったこの現象を自分なりに考察してみたこともあるが、たぶん的外れだと思うから紹介はしない。

しかし思い返すと、僕が小説ではなく詩の方向に舵を切ったのは、この体験が大きかったような気がする。

あの頃から3倍近く時を重ねて、僕は大人になり(いちおう)理性優位の自分を構築した。散文を書いていて泉に辿り着くことはないし、仕事をユニコーンに邪魔されることもない。
しかし積読とか、光る本とか、世界名作劇場とか、いやもっとずっと日常的な、たとえば深い雲で山が見えなかったことや、カメラフォルダから変な写真を掬い上げたことや、プロ野球の放送が延長したことや、何気ないことから態とらしいことまでの全ての中から、手元に舞い込んできたピースたちが、古い幻想的なピースを呼び覚まし、また新しいピースとなる。

それらの体験を、無意識とか宗教体験とか、さまざまな学問のさまざまな呼び方を知って得心することは無駄なことだ。詩になるとは思うけど、あえて詩にしなくても良い。必要があってもなくても現れるときは現れる。消えるときは消える。しかし、どうも消滅はしない気がしている。あくまで、気がしているだけ。

とりあえず、早くトマス・ハーディの作品を読んでみたい。


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