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小説『あれもこれもそれも』4-2

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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -2


 この記憶の作業と並行して、何人かの男女が代わる代わる現れては、発声練習やら筋力トレーニングを施していった。
 自分の体に注意が向くようになると、足がやけに細くなっていることに気付いた。筋肉がどこにあったのか分からず、右足を腿から浮かせて足首を回してみる。ふくらはぎについた贅肉がだらしなく揺れ、ぶよぶよに熟れた梨のようになっている。
 医者は「1ヶ月近く」と言っていた。その期間は決して短いものではないが、それだけでこんなにも自分の体が衰えるものだろうかと訝る。しかし、この足は紛れもなく自分のものである。これまで意識したこともなかったが、こうして動かしてみると、自分の脳とちゃんと繋がっているようだ。

 リハビリテーションというものは、事故や怪我にあった人や老人のするものだと思っていた。経緯こそよく分からないが、今は自分がそれを受けている。40歳の俺がリハビリーション。それを受け容れることをプライドが邪魔しそうなものだった。しかしこの時は根の真面目さが勝ってくれたのか、療法士たちが部屋を去った後にも、ひとりで同じ作業を繰り返し繰り返し行っていた。トレーニング用チューブのゴムの匂い。じっとりと胸の中央に滲む汗。これらが心地よく思えるようになった頃、ふくらはぎには張りが少し戻ってきていた。

 ところで、時間が経つにつれて、感情が抜け落ちていた人生の白黒の設計図に、色がつき始めた。それは不思議と、脳と筋肉とが緊密さを取り戻していくのと並行しているようだった。
 俺は看護師にノートとペンを貰い、感情の蘇ってきた部分を書き留めていくことにした。治療として強いられたものではなく、自分の意志で始めたことだった。これは〔断片〕と名付けられ、そしてなぜか他人事のように書き綴られた。


〔断片〕

 松田の自室にある本棚、その一番下の段には思い出の品々が収まっている。例えば卒業アルバムや文集、写真や手紙などだ。律儀なようにも思えるが、数としては決して多くなく、取捨選択された形跡がある。
 例えば、高校時代の通知表には後から付箋が貼られた箇所があって、そこには綺麗な字で〈一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである ジェラール・シャンドリ〉と書かれている。当時の担任の教師が生徒に向けて書いた言葉であろう。この言葉が後の松田の運命を左右するものとなった。
 品の中には何枚かのCDも収められていた。傷だらけのケースで、2枚組のフランス印象派ピアノ曲集がある。そのDisc1はラヴェル、サティ、ドビュッシーの並びとなっていた。ケースを開くと、CD自体にも多くの傷が付いている。ブックレットを取り出し、セピア色のパリの街並みが描かれた表紙をめくると、そこにもまた付箋が貼ってあり、メモ書きが残されていた。
〈2009年 佳美が好きな曲〉
 その文字に続いて書かれた矢印は、曲順の中で4番目のエリック・サティの『ジムノペディ1番』を指していた。

 2009年、松田と佳美はまだ結婚していなかった。佳美が新卒で入社した職場でパワハラとセクハラに遭っていて、気分転換にと夕食に誘った晩があった。先に仕事を終えた松田は、待ち合わせ場所の車中で、このCDを聞いていたのだ。松田はラヴェルが好きだ。だからこの初めの3曲が終わると、最初に戻してはまた再生していた。しかしこの日は違った。
「ありがとう、浩之」
 ちょうど3曲目が終わった頃に、佳美が車に乗り込んできた。そのまま車を発進させると『ジムノペディ第1番』が静かに鳴り始めた。
「あっ、この曲は聴いたことあるよ。何かのCMで流れてなかった?」
 クラシック音楽をよく知らない佳美だったが、その曲には興味を示した。
「エステのCMじゃなかったかな」
「そうかも。浩之のいつも聞いているピアノ曲は難しくてよく分からないけど、私この曲は好きだな。なんだか気持ちが落ち着くっていうか、イライラが鎮まる感じ。今聞くのにピッタリかも」
「今日も苛められたのか?」
「うーん、そうだね……そうかも。でもどこもこんなもんだって言うよね」
 佳美には、世間の不条理に理由をつけて何となく受け入れてしまう癖があった。松田は彼女のそんな性格を寛大だと思って愛しつつも、いつも気にかけていた。
「それじゃダメだ。少なくともうちの会社ではハラスメント被害者が声を上げやすいように対策をしている」
「うちにはそんな空気はないなー。プロジェクトのチームが決まって女が入っているだけでおもむろに嫌な顔をする奴がいるくらいだもん。同期の男たちも段々上司に似てきているしね」
 佳美はそう言って力なく笑った。本人は諦めて受け入れているつもりだったのかもしれないが、松田にはその表情が絶望に映った。この時、男に何か使命感のようなものが芽生えていた。

 佳美はゆっくりゆっくりと、本来の笑顔を取り戻していった。サティの『ジムノペディ』か、それとも松田との会話や食事のおかげか。実際には職場を退職したことも大きかった。あの待ち合わせの日から2年後に2人は結婚し、しばらくして麻衣が生まれた。


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