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小説『あれもこれもそれも』4-6

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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -6


 日に2回、屋外に出ることが許された。敷地内であれば小一時間程度自由に散策して良いというもので、多くの患者と同じ権利が俺にも与えられた。入院する前まで、精神科の入院施設には独房のようなイメージを抱いていた。確かに最初に自身が入っていた個室の白い壁は、そのイメージ通りのものであった。しかし庭に降り立つと、さざめく波音の上に悠然と乗っかる広い青空と、陽の光を反射して艶立つ芝生が、視界の中心から上下へと広がった。そこでは境界線となるコンクリートの塀など、取るに足らないものだった。ここに来て独房などという浅はかな考えを改めるに至ったのだ。

 父親が抗がん剤の治療のために入院したときのことを思い出す。鬱陶しいくらいに体は元気なのに、血液検査の値だけを見て外出は禁止され、面会も制限されていた。病院のエントランス近くの売店までこっそりと出かけたことがあって、それさえ強く咎められていて、憤る父親に家族一同困ったものだった。現代において独房は、その姿形をすっかり変えているようだ。

 例えば俺が本当に精神的な不調から入院しているとしても、今俺の前に広がるのは紛れもなく際限のない、制限のない世界だ。精神科病院の方が自由度が高い場合もあるのだろう。同室の窓際の2人だってそうだ。好きな本を傍らに積み上げ、智の世界の深遠まで向かう旅を存分に楽しんでいるのだ。これだって、病院の外ではなかなかできないことだ。
 どちらにせよ、人の不具合が表面に見えることが少ないのと同じように、われわれが実際目にしているもののうち、真実と呼べるものは少ないのだろう。

 外出が許されたことにより、気候の変化を肌で感じるようになった。そして時の流れはその速度を、緩やかに、ときに急速に変化させていく。


〔断片〕

 絶望に立ち向かうための方法は、言葉や音楽や成功や……色々あるが、手持ちのカードの中から松田はエロスを選んだ。それは彼にとって直接『与え』得るものであったからだろうか。しかしそう時を隔てずして欲望は肥大し、次第に歪んだ方向へと曲がって行った。
 早希を巻き込んでは様々なことを試みてみたものの……当然ながら自分はおろか、誰のことも救えた気になれなかった。もちろん救われた気にもならなかった。
 そのことに薄々気付くようになり、日を追うごとに苛立ちを抑えきれないようになっていった。

 松田浩之の精神の動揺を端的に表しているものがある。それは彼のパソコンに保存されている多くの写真だ。
 ある時期までは家族や日常の風景、また植物などの静物がメインであった。どの写真もアングルから光の入り方まで綿密に計算されており、非常に芸術的であった。彼は大学時代に写真部に所属しており、そのようなセンスや技術を持ち合わせていたのだろう。

 しかし次第にその被写体が性的な色を帯び始めた。その中には吉岡早希と性行為中の写真も含まれていたし、今回の事件で早希を縛るために使用されていた赤い麻縄も写り込んでいた。これらの写真は、後から性的興奮を思い返すためや、他人に欲情を起こさせるための俗趣なものとは、明らかに一線を画していた。猥褻なだけではなく確かな美的感動をも備えていたのだ。

 しかし数ヶ月ほど前から、隠し撮りをしたと思われる不穏な写真がちらほらと顔を出し始める。他人の性行為、スパンキングや加虐行為に耽る男女などである。駅で痴漢をする男やレズビアンカップルの盗撮写真なども含まれていた。
 これら変化が何を示しているのか、松田が何の目的でこれらの写真を撮影したのかは分からない。しかし明らかなのは、この時期の松田に精神的な不調和が訪れ、犯罪まがいの行いをしていたことである。
 そして、直近の写真では、それまでしかと刻印されていたはずの〈美〉さえ崩れ始めた。不用意なフォーカス、滑り落ちるアングル、焦って切られたシャッター。どれをとっても従来の松田が撮ったとは思えない駄作になっていった。素人目にも瞭然であった。


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