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小説『あれもこれもそれも』4-11 最終話

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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -11 最終話

——無力だ。
  音楽も、エロスも、海も、
  当然、俺も。
  (前話)


 妻と医師との面談があった日の午後。庭に出て、長いあいだ潮風に吹かれベトついた白い椅子に腰をかける。いつの間にか、だいぶ風が乾いてきていた。芝の色は褪せ、逆に空は深まる。

『佳美……俺は、誰のことも救えなかった、むしろ……』

 妻が遮ったこの先の言葉は、今度は空の青に絡め取られた。こうして俺は戒めと許しを同時に得た。きっと何かを思い込み、間違えていたのだろう。
 1人娘の父親であった俺が、3人の子の父親になるのか。子どもができるまでも色々あった。きっと生まれるまでも、そして生まれた後も色々あるのだろう。
 それらの前でこれ以上、古い記憶に色を付けることは無意味だ。だからというわけではないが、俺の断片、そして断片の俺をここまでにしようと思う。

 明日もまた、細くなった足がこれ以上細くならないように、俺はチューブを使ってトレーニングをして、常食を食べなければならない。常食だからきっとこれ以上太くはならない。それでも小さな多くのことを積み重ねて、小さな多くのことを我慢して、満足していかなくてはならない。
 はじめから、もっとそういった、自分の些細なことだけを考えていれば良かったのだろうか。同室の3人のように、もっと自分自身のことを。それで彼らは大丈夫なのだ。俺もそれで、大丈夫だったのかもしれないな。

 目の前に広がる芝生を見つめながら、俺は自分の呼吸や心拍が大地に根を下ろしていくような感覚を得た。性交の後のまどろみの、豊かな承認にもほんの少しだけ似ていたが、それより遙かに気分がよかった。行為ではなく、生命そのものを許された心地がした。
 そしてこの時、ようやく途絶えたのだ。どこからともなく絶えず響いてきて、俺を駆り立てていた言葉の一切が。
 白い椅子のまわりには、光と緑が混じり合って、洋酒のような程よい刺激と甘い香りが立ち上った。そこに波の飛沫が風に乗せられて吹き込み、俺の頬を濡らした。
 はじめて、自分のために流す涙のように思えた。

 退院も近いそうだ。しかしこの病院の敷地を越えることが、本当の意味で外に出るということではないのだろう。またゼロから作り直さなくてはならない。
 こうして海から吹き付ける風を感じ、波音が聞こえている。鳥の行方、雲の行方くらいしか追うことのできない今の方が、なぜだか自由であるような気がした。
 ああ、しかし退屈な時間だった。それも、俺にはじめから与えられている時間だったのだ。


♢ 『あれもこれもそれも』Fine. ♢


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また次回作で会いましょう。

矢口蓮人


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