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小説『あれもこれもそれも』1. ④

あれもこれもそれも
 story1. 呪術的な日常 ④

 自宅アパートの駐車場に車を停め、部屋の中には入らずそのまま自転車置き場に向かう。ちょうど隣部屋に住むカップルが部屋から出てきて、外階段の踊り場でキスをしているところだった。結構ディープなやつだ。こちらも朝の別れ際か。以前、僕が女友達を部屋にあげた日の翌朝「彼女さん来てたんですか〜?」と、あっけらかんと聞いてきたカップルだった。地方で大学の近くに住むというのは即ちこういうことで、部屋数が少なくて壁の薄いアパートではプライバシーなど無いに等しい。僕は彼らのことを浅はかだと心底馬鹿にしている。きっと自分たちの恋愛が基準で、それが辞書や社会の中にも判を押したように展開しているとでも、勘違いをしているのではないだろうか。隣の部屋にゲイが生活していることなど、想像もつかないのだろう。たとえ自分たちのものとは違う恋愛の形を知っていたとしても、その知識は日常生活に反映する実感を伴わない、脂肪のような知識だ。カップルに声をかけられた日から、念には念を入れ、芳彦を僕の部屋にあげないように気をつけるようになった。こうやってぼくはまた隠れていく。
 自転車に跨り、立ち仕事と酒でこしらえたむくみの残る足を、腿の付け根から回し始める。夏の日差しを浴びると、額に汗が滲むのは一瞬のことだ。T字路で右にハンドルを切ると、一切ペダルを漕ぐ必要のない下り坂に続く。全身に風を浴び、夜中に溜め込んだ水分を、全て大気中に放出する。この瞬間がとても好きだ。

 しかし爽快な時間はほんのいっとき。大学に到着して自転車を置く。各館を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、向こう側にサッカーのユニフォームを着た3人組の男たちの姿を見つけた。だらしなく大口を開けて、騒々しい笑い声をあげながらこちらへ歩いてくる。健斗だ。僕は息を呑んで、せめて数分早ければ、もしくは数分遅ければ、と後悔した。彼らはそんなにスペースのない廊下で、目一杯広がりながら迫ってくる。僕は仕方なく端に寄る。すれ違いざま、一瞬だけ健斗と目が合ったが、互いに声をかけずに通り過ぎた。
 彼は同じ大学にいて、そして偶然にも同じバイト先で僕よりもほんの数日前から働き始めていた。色黒で無骨な容貌は大学には辛うじて溶け込んでいるものの、バイト先のラウンジ『つれづれ』では悪目立ちしている。しかし彼はそれを全く気にしていないようで、僕はその態度がなんとなく気に食わない。大学でも健斗と言葉を交わすことは一切ない。以前は、少なくとも僕の方は、話すことがあっても良いかと思っていた。しかしその気持ちが砕け散るまでの時間はあまりに短かった。
 初めてバイトで一緒に仕事をした週末の次の月曜日、僕と健斗は今日のように大学のこの場所ですれ違った。その時も彼らは広がって歩いていて、僕は中央を突破して「週末はお疲れ様でした」と声をかけた。しかし、彼は僕を完全に無視した。その時の目はまるで『お前に、俺に話しかける価値なんてねえよ』と言わんばかりに冷たく、明らかに僕のことを蔑んでいたのだ。

 ……ふと、空間に溶け込んでいない機械音が耳について、僕は後ろを振り返る。電動車椅子を操作する学生が、不自然な軌道で3人をよけ、僕と同じように廊下の端に寄りながら渡っていった。健斗たちは彼のことを意に介する様子もなく、依然として広がったまま歩いていった。

 どうも腑に落ちないのは、バイト先での健斗の態度は全く違うからだ。ラウンジ『つれづれ』はテーブル・チャージを5000円も頂いている店で、ボーイにはホステス以上に厳しい礼儀作法が求められている。彼はそれを充分以上にこなしているし、店の女性にも多くの客にも可愛がられている。決してただ媚びているようではなく、それなりにスマートだと思う。運動部仕込みの立ち振る舞いというものは、どこに行っても通用するものだろうか。僕にはもうよく分からない。ただ店のママは人を見る目に定評があって、それが特に新人雇用の際に発揮されているのを、何度もこの目で見てきた。どうして彼を雇ったのだろうか。
「健斗くんと拓人くん。2人とも最後に『ト』がつくでしょう? 私、今でもときどき間違えちゃうのよ」
 ママは1年経った今でも時々そんな事を言う。さり気なく従業員のことを客に印象付けようとしてくれているのだ。たしかに客に名前を覚えてもらった方が、仕事がやりやすくなるのでありがたいのだが……健斗と並列されると、なんだかモヤモヤとした嫌悪感がこみ上げてくる。


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