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小説『あれもこれもそれも』4-10

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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -10

拓人は恐る恐る部屋へと足を進めてきた。そこで繰り広げられている光景は、青年の目にどう映っただろうか。SMプレイに没頭する男女と、それを眺めて立ちつくす青年の姿が、松田の左右の瞳に綺麗に収まった。
(前話)


〔断片〕

 視線をいち早く感じ取ったのは早希で、それまであげていた動物のような喘ぎ声を止め、息を飲んだ。健斗が振り返り、彼もまた動きが止まる。
 静寂。世界の音を支配するミキサーの主音量が落とされたようだった。向かい合う2人の青年。なぜ互いがこの場所にいるのかまったく理解できない。次第に2人の肩や膝が小刻みに震えはじめ、それは部屋の空気までも揺らし始めた。火山噴火前の地響きのような不吉な兆候がしばらく続いた。

「ふざけるな、健斗!」

 先に仕掛けたのは拓人の方だ。松田の思惑通り、健斗がアプリの『KNT』として自分を呼び出したのだと思い違いをして、怒りを爆発させた。隠していた自分の領域を興味本位で覗き見され、そのうえ嘲笑の対象にされたと思ったのだ。理性より遥かに早く、足が動いた。それは自分の大切なものを侵されたことに対する復讐であり、守るための聖戦だった。
 拓人はポケットからナイフを取り出し健斗に迫った。ベッドに落ちる影にナイフを突き立てて、呪ってやろうと思った。そうだ、ダライ・ラマがシャンカラにそうしたように。
 健斗はナイフを手に迫ってくる拓人を見て、唐突に向けられた言い知れぬ感情に、ただ慄くしかなく、体は一瞬閉じ込められた。声も出なかった。拓人を諌める言葉を模索したが、それを考えるための言葉、いや言語そのものが浮かばない。彼が自分を守るためには、肉体しかなかった。
「あ……わぁーーーーっ」
 健斗の内で恐怖が飽和すると、突如として戦慄の呪縛が解けた。堰を切ったように、健斗は拓人に掴みかかった。男たちの荒い息遣い、手足が壁や床に当たる鈍い音、そして女の悲鳴。

 2人は無我夢中で守った、守った、守った。相手を傷つけることを厭わないほどに、ひたすら自分の領域を守ろうとした。早希の泣き叫ぶ声が響き渡る。しかし当然それは、2人に届くはずがない。
 人生の中でまだ擦り減ることの少なかった青年たちの剥き出しの感情、そのぶつかり合い、摩れ合い。それを目の当たりにして松田は言葉を失った。圧倒されて腰から下の身動きが取れなくなっていた。2人の有り余る熱量を全身で感じ……愉悦が押し寄せていたのだ。
 そんな状況下で辛うじて動いた松田の両腕。スマートフォンが手に握られ、掲げられた。カメラのレンズが掴み合いをする二人に向く。若さゆえに勝手に生まれ、若さゆえに勝手に膨らんだ憎しみが、フレームの内にしかと収められ、1人の身勝手な男の快楽を保存するために、人知れずシャッターが切られた。

 カシャッ

 突然、ドアが強く叩かれる音が部屋中に鳴り響く。「おい、おい、何やってる」という怒鳴り声と共に。
 ほどなくして外から鍵が開けられ、何人かが飛び込んでくるのが見えた。1人の男が健斗と拓人の間に割って入り、組んずほぐれつ揉み合う。そのうち健斗の体が宙に浮き、翻って奥の壁に激突した。うずくまる健斗をよそに、男は拓人を抱き寄せた。
「おい、拓人! 大丈夫か!?」
「……え、あ……ごめん。
 芳彦……ごめん、ごめんなさい」
 拓人は声にならない声で謝罪の言葉を繰り返している。やがて拓人の口の動きが止まり、その身ごと男の腕の中にうなだれた。
 男は首を支えながら拓人を床に寝かせると、遠くに立ち尽くす松田を見つけて、その方へとじりじり寄って行った。怒りに震え、目は血走っていて、何を言っても聞く耳を持たないのは明らかだった。こんなに鬼気迫る表情を、松田はこれまで人の内に見たことがなかった。男も……森井芳彦の方も、このように激昂することは、いまだかつてなかった。
 しかしこんな状況においても松田はまた、その見知らぬ男のことさえ、その向けられた敵意の熱さえも羨ましく、その身に感じていた。

——こうして誰かに憎まれることで、ようやく俺も、誰かの記憶に残るのかもしれない。俺は与えている。与えてるんだ。

 芳彦は松田の胸ぐらを掴み、顔面を平手で殴打し始めた。何度も、何度も、執拗に。そのさなか、後ろで妻の佳美が佇むのが、松田の目に飛び込んできた。妻は夫への暴行を止めることなく、固唾を呑んで見守っていた。ややあって何かに気づいたかのように、早希の横たわるベッドへと駆け寄っていった。

——どうして俺は、見ず知らずの男に殴られているのか。そうか、この男は拓人を救うために現れたのか。ならしかたがないのか。しかし、なぜ妻がその男と一緒に現れたのだろうか。そして妻が、本来憎むべき俺の愛人を救おうしているのは、なぜだ……

 自分の頬が叩かれる音の奥で、女同士の会話が交わされていた。早希の怯えた声と、佳美のこれまでに聞いたことのない力強い声。松田は殴られながらも、しかとその始終を耳で捉えていた。
「ありがとう……来てくれて」
「うん。もう大丈夫よ。こちらこそ連絡をくれて、本当にありがとう」
「……助けて」
「うん。もう、大丈夫だから」
「私じゃなくて、彼を、助けて」
「……」
「本当に、本当に、ごめんなさい」

 松田が愛した2人の女は身を寄せ合った。早希の子どものように泣きじゃくる顔がしつこくちらついてきて、佳美の人を守ろうとして開いた瞳は脳裏に強く焼き付いた。それらはどれも松田の知らない顔で、頬に受けている痛みとは比べ物にならないほどの衝撃を彼に与えた。

——なぜ皆、俺以外の人間に
  救われるんだ?
  愛することとは、
  与えることではなかったのか。
  与えて救うことではなかったのか。
  もう、どうでもいい。
  嘘じゃないか。
  与えれば後の世に残るなんて、
  いったい誰が言ったのだろうか。
  嘘だったじゃないか。
  やっぱり、嘘だった。
  俺に何が残せるというのか。

  無力だ。
  言葉も、音楽も、エロスも、
  当然……俺も。


♢『あれもこれもそれも』次回が最終話 ♢

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