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小説『あれもこれもそれも』2-5

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小説『あれもこれもそれも』
story 2. 遊女の廊下 -5

 比翼塚を後にして、ついでに寄った渋谷。道玄坂上で声をかけてきた年上の男性に高い食事をご馳走してもらい、そしてセックスをした。これが私の〈水揚げ〉となったのだ。この日から、私の傍にはいつも小紫がいるようになった。守護霊というか、チューターのような存在だった。
 私は何人かの男の愛人になった。大学卒業後はアパレル販売系の派遣社員をしていたが、派遣先や勤務時間はその都度変更を余儀なくされた。それは愛人優先の生活を徹底するためだった。転職だって幾度もした。職場で変な噂を立てられることもあった。しかし困ったとき、小紫様に声をかければ、すぐ的確なアドバイスとともに慰めの言葉が返ってきた。『大丈夫』と。

 しかし、その声がある時から聞こえなくなった。そのことが今の男を「恋人」と呼んでいる理由である。恋人の名古屋での単身赴任が終わり、妻子の元へ帰らなくてはならなくなったのが3年前の冬のこと。私は今後の2人の付き合い方について何も言わないでいた。すぐ横から小紫様が「すがってはいけない」としきりに諭してきたからである。
 ところが、絶対に捨てられると思い込んでいた私の意に反して、恋人の方から「一緒について来てほしい」と言ってきた。これにはさすがに驚きを隠せなかった。これを〈身請け〉と捉えてよいものだろうか。私には駅近くに家賃11万円のマンションを与えられることが提案された。花魁の身請け金として、高いのか安いのか分からない。いつもの通り、自分の右横にいる小紫に尋ねてみた。この〈身請け〉を受けてもよいかどうか。……しかし彼女から返事はなかった。何度声をかけてみても、自分の声が虚しく部屋の中に響くだけだった。さんざん悩んだあげく、私は名古屋を離れる決心をした。
 引っ越しをした当日のこと、1つ余って何も置かなかった部屋で床に寝そべっていた。よくよく考えて見ると、恋人の職種や年齢で、ましてや妻子もあるのに、この部屋をずっと貸し与えられているのは現実的ではなかった。それこそ辻切りまがいのことでもしてしまうのではないかと、不安になったものだ。

 私は私なりにきちんと考えようとしていた。彼にこれ以上の金銭的な負担をかけないために、仕事を探さなくてはならないと。ある時、彼はバーラウンジの女性スタッフのアルバイトを紹介しようと、歓楽街にある『つれづれ』という店に私を連れていった。そこはこれまで私が見た事のないほど美しく煌びやかな世界で、人の欲望が下卑たるものに変化する手前で上手に留まっていた。ただ、私にはいささか清潔すぎたのだ。その店に行ったことで逆に確信してしまった。『私は遊女であるからこそ高潔でいられるのだ』と。そしてたった一度行ったきりで、恋人の勧めをしりぞけた。
 この時にもまた小紫様に声をかけてみたのだが、やはり一切の返事は来なかった。名古屋を出る決心をした日以来、声が聞こえてくることはない。安い身請けに甘んじてしまったことで、愛想を尽かされてしまったのかもしれない。しかしたとえそうだったとしても、私の方は小紫を憧れる気持ちに変わりなく、3年経った今でもこうして時々話しかけている。
 ……深夜のタクシーがたいそうな時間旅行をしたおかげで、鬱屈した思いを一時的に忘れることができた。


 翌朝目が覚めた時、知らないアドレスからメールが来ていた。
〈昨夜はとても楽しかったです。
 また会いたいっす。健斗〉
 恋人がなんの相談もなしに私の連絡先を売った。怒りが最初に来そうなものなのに、それより先に一瞬、心踊る感じがあった。その感覚は寝ぼけ眼の私の頬を素早く引っ叩いたと思ったら、一気に遠くへ離れて身を隠した。そいつは深追いしない方が良いと思った。
 再び液晶画面に並べられた文字を目で追ってみる。〈っす〉なんて字面を初めて見た。なんと返事をしようか。
 恋人の悪事に差し障りのないようにするなら〈またしたくなったら恋人に言ってね〉とでも返せば良い。もし小紫様だったら〈昨夜は私も楽しかったわ〉なんて営業用の言葉を繰り出すだろうか。
 素の私が返事をするとしたら……いまの私はどう感じている? そう考えるとさっきよりもなぜか、多くの言葉が浮かんでくるようだ。〈昨日は落ち着きなかったね〉とか〈もう少しちゃんとした格好で〉とか〈女性には優しくして〉とか、その多くは昨晩の駄目出しになるけれど。体の奥底から言葉が湧いてくる感覚があった。たった2文のメールに対する返事だと言うのに、言葉が溢れてくるようでまとまらない。こんな感覚は初めてだ。これは恋人に強いられている沈黙の代償か、もしくは当てつけか。
 恋愛感情……か? 花魁に弟子入りして金品と性愛の交換をずっとしてきた私には恋愛感情というものがよく分からない。それは分かろうとしないでも、気づかないでもないのだ。ただ、分からない。
 返せずにいるメールをぼんやりと眺めていたら、急に恐怖心が込み上げてきた。これ以上、健斗という青年と関わることに危機感を抱いた。自分が普通の恋愛感情を知って、凡庸な女になることを怖がったわけではない。私と恋人の歪んだ関係のために、あの幼気な瞳の持ち主を傷つけてはいけないと、心から思ったのだ。


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