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2 流浪の楽師 【葬舞師と星の声を聴く楽師/連載小説】

連載小説『葬舞師そうまいしと星の声を聴く楽師がくし』です。
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前話

2 流浪の楽師


 母を亡くした少年が血の繋がりのない大人の手に引かれていくのを、アシュディンは複雑な想いで見送った。少年には元から父親がおらず、しばらく村役の家で預かることとなった。丸3日間の断食と同じ姿勢と、喪の哀しみのせいで少年の足取りはひどく覚束ない。転びそうになるたび村役の男に支えられていた。
《本当に大変なのはこれからだろうな》アシュディンは少年の背中に自身を重ねていた。彼もまた幼い頃に両親を亡くしていたのだ。不慮の事故だった。村の少年より悲惨だったのは、その悲劇がアシュディンの眼の前で起きたこと。一方で少年より遥かにましだったのは、盛大な葬儀が執り行われたことと、残された子らに大人の庇護が途切れなかったことだ。

 記憶は色落ちし、擦れ、剥がれ落ち、劣化した素描画のようになる。そのような記憶はもはや何の感慨も与えはしない。しかしこの時はモノクロの絵の中央にひとりの女性が立ち現れ、アシュディンを動揺させた。背景と違いそこだけ鮮明に色づいている。《姉さん》アシュディンは幻影に向かって呼びかけた。栗色の髪が揺れる。女は振り返った先に弟の姿を見つけると、ゆっくりとその深緑の瞳を翳らせていった。
 アシュディンは自ら拵えた幻想に耐えきれなくなり、必死に影を振り払った。
 ──音が聞こえた。横から脳を小突かれたような感覚がして、天を仰ぐ。見渡せば夜。世界は濃い紫色の空と黒い大地とに二分され、凪の静けさが闇に溶け込んでいくようだった。聴覚が研ぎ澄まされていく。
 いちど遠くで犬が吠えた。アシュディンは《違う、この音じゃない》と思い、注意深く耳をそばだてる。するとふたたび聞き慣れない音が鼓膜を震わせた。《いや聞き慣れないというよりむしろ……》それは彼にとって馴染みの深い、弦を弾く音だった。ただし、巷にあふれる楽器とは、発音に僅かな違いがあるようだ。弦の素材か、それとも共鳴体の構造によるものか。知らない音は、物憂さの裏に潜んでいた青年の好奇心をくすぐった。

 音は宿舎から漏れ出ていた。舎といっても四隅に立てた木柱に天幕を張った簡易的なものだ。そこは墓のある荒れ地とは反対側の村外れにあり、道すがら、アシュディンは次第に大きく聞こえてくる音に胸を躍らせた。いったいどんな楽器が奏でられているのか、いったい誰がこんな音を爪弾つまびいているのか。
 彼は宿の前まで来ると、垂れ下がった幕の切れ目にそっと手を差し込んだ。外と内の空間が繋がり、テント内の気流が微細に変化する。奏者はそれを素早く察知し、弦を弾く右手の動きをぴたりと止めた。場に深い静けさが漂い、糸をぴんと張ったような耳鳴りが立ち現れた。
 目と目が合った。覗こうとする視線と、覗かれまいとする視線がぶつかる。アシュディンがその先に見取ったのは、むしろの上に胡座あぐらをかいて、撥弦はつげん楽器を斜めに構える男の姿だった。葬舞の間に村役の隣に来ていた男だ。男はゆるやかな肌着一枚に着替えており、剛健な体つきがさらに強調されている。松明の炎に揺れる影まで、周囲をことごとく威圧するような存在感に満ちていた。

 アシュディンは物怖じせず、屋内に足を踏み入れた。
「邪魔をしてすまない。今朝方けさがたここに着いた放浪の楽師がいるって村の人から聞いたけど、あんたのことだよな?」
 友好的に接しておいて悪いことはない。その手の内に控える楽器に触れるためにも、アシュディンはまず持ち主に取り入ろうとした。
「俺はアシュディン。宿はこのテントひとつしかないみたいだから、出立しゅったつまでのあいだ迷惑をかけるかもしれないけど、よろしく」
 明朗快活な声と好意的な態度に、男はテリトリーの防壁を緩めざるを得なかった。渋い顔を浮かべながらも「ハーヴィドだ」と名乗った。濁音が地を這うように響いてきた。
 返事があったことに安堵したアシュディンは、もう少し踏み込めそうに思えて、さらに言葉を継いだ。
「その名前、同じ国の出身だよな」
「……」ハーヴィドは眉ひとつ動かさない。
「だけどそんなリュートは初めて見たよ。異国の楽器か? ちょっと見せてくれよ」
 アシュディンは逸る気持ちに歯止めが効かなくなり、楽器を間近で見ようと近寄っていった。すると楽師は目つきを厳しくして、足元の布で楽器の胴を素早く覆った。
「駄目だ、こいつは古楽器だ」
 と言って警戒心を剥き出しにする。替えが効かないという意味だった。しかしその意に反して〈古楽器〉という響きはむしろアシュディンの浪漫を掻き立ててしまった。
「いいだろ? 気をつけるから」
 手が伸びていく。布からはみ出た長い棹に、その指が触れるやいなや──

 ハーヴィドの手がアシュディンの手首をがっしりと掴み、侵入を拒んだ。並んだ腕の太さは倍以上違う。痛みを与えるような握り方ではなかったが、アシュディンは全身の関節を固定されたかのように身動きが取れなくなった。必死で抵抗するもまったく解けそうにない。
 ハーヴィドはアシュディンの体をぐっと引き寄せ、獲物を威嚇するかのように睨みつけた。色も質も違う両者の髪が、触れそうなほどに近づく。
「おい、アシュディンと言ったか。お前、いったいどれだけの期間、練習してない?」
「は?」戸惑うアシュディン。
ダアルのことだ」
 念押しの言葉でようやく意味を理解すると、アシュディンは抵抗する力をふっと緩め、絞り出すように声を発した。
「……1ヶ月」
「もっとだな。いや、お前はそれ以前からまともな修練を積んでいない」
 ハーヴィドはアシュディンの腕を投げ捨てるように払った。よろめいて横向きになったアシュディンは楽師の顔をまともに見られず、その場でじっと俯いた。しかし楽師の叱責は容赦なく続けられる。
「おおかた天賦の才とその顔で許されてきた口だろう」
「は!? 楽師風情になんでそんなことを言われなきゃならないんだ。俺は──」
「黙れ。芸道を歩む者が吐く芸をおろそかにする理由、そんなもの言い訳以外の何物でもない」
「──っ」
 アシュディンは自身がなぜこうも反論できずにいるのか不思議でならなかった。痛いところを突かれているから……それだけではない。ハーヴィドの発する言葉に秘められた独特な律動と重圧に押され、返す言葉を見失ってしまうのだ。

「あんたの言う通りだ、俺が悪い」
 早々に白旗をあげたアシュディン。舞を踊ったのがひと月ぶりであったことは紛れもない事実だ。しかしそんなことより、
《たった一回の舞で見抜くなんて、この楽師いったい何者なんだ?》
 興味の矛先はすでに古楽器からハーヴィドの方へと移っていた。その精悍な顔立ちをじっと見据える。貶められた悔しさと好奇心が混ざり合い、なぜだか、妙な期待がふつふつと湧き上がってきた。
 ハーヴィドは向けられる眼差しを受け流し、楽器の棹を布で拭き取り始めた。
「おいっ、ここはあんたも謝るところだろうが。〈すまん言い過ぎた〉とか、そういう流れだったじゃん!」
 アシュディンはおどけてみたが、それも暖簾に腕押しだった。ハーヴィドは沈黙を堅く守りつつ作業を終えると、楽器を包んで寝床の奥へと押し込んだ。そして自らも寝そべる。でかい楽器とでかい図体とが平行に並ぶ。アシュディンはそれらを見下ろしながら、踏み越えてはならない境界線が何本も引かれているように錯覚した。
「俺はもう寝るが、こいつに指一本でも触れようものなら、容赦なくその脚をへし折るからな。二度と踊れないようにな」
 いや、錯覚ではなかった。アシュディンは楽師の突きつける禁忌に魅せられ、興奮のためにその晩まったく眠れなかった。

 ──ハーヴィドもまた寝付けずにいた。瞼の裏に夕刻のアシュディンの舞が浮かんで、彼の眠りを妨げていた。
《この青二才が全面的に悪いとも言い切れない。いったいダアルの伝統はどうなっているんだ?》
 離れて寝そべるふたり。おのおのが心にわだかまりを抱き、行きつ戻りつする時に身を委ねた。テントの外では夜空の星々が正確に夜を進めていった。


── to be continued──

次話

本作は不定期連載です。
次回公開まで楽しみにお待ちください!

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