見出し画像

エッセイ・ある王女の詩の変容【再掲のすすめ】

この記事は2017年11月の記事の再掲です。
再掲のきっかけはコチラ。

そして重要なきっかけが、もう一つ。

2020年秋、僕の大・大・ダイ好きな漫画が再アニメ化されます。発表されてから毎日ウキウキ、このアニメが控えていると思えば、大抵のことは頑張れます。

皆さんが「言葉の力」に最初に気付いたきっかけは何でしたか?
人からもらった言葉、国語の教科書、もしかしたら好きなアーティストの歌だったかもしれません。
僕にとってそれは、この『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』に登場するキャラクター、ある王女のセリフだったんです。このエッセイは彼女のセリフについて再考したもので、再アニメ化が発表される2年以上前に書いたものです。
アニメ好き好き……ではなく、ことば好き好き……として紡ぎました。ではHere We Go!

僕は言葉の力を信じている。ずっと胸の奥底に眠っていた言葉がふと目を覚ます、そんな瞬間に出くわしたことは、きっと誰にもあると思う。言葉を取り出したり、仕舞ったりするたびに、少しずつ意味が変わっていくこともよくある。

今回は或る漫画のセリフについて。

『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』(以下『ダイ』)は1989年から8年間に渡って連載された漫画だ。原作者である三条陸氏は多くの人気漫画や実写特撮作品を手がけてきた。
『ダイ』の魅力は大きく分けて2つ。ドラクエの世界観に根差した冒険・戦闘シーン、そしてファンタジーの世界には似つかわしくないほど密度の高い人間ドラマ。この2つの波状攻撃に読者は戦闘不能にさせられる。
カッチョいい武器や呪文がバンバン繰り出されていたかと思えば、そのバックに師弟・朋友・親子・男女の愛情物語がこんこんと語られている。ただワクワクしているだけと思ったら、知らず知らずのうちに人生を学んでいることになる。

作中に、主人公パーティーを「正義や勇気」へと駆り立てる箴言の数々が登場することも、『ダイ』の魅力の一要素だ。
多くは彼らの師匠である「アバン先生」によって語られることになる。が、彼は物語の序盤で命を落としてしまい、それからは弟子を介した伝聞だったり、先生が残した書物などから生きるヒントを探っていく。

中盤以降、戦いが激化してきて、パーティーに新たな指導者が必要になってくる。そこでアバン先生の後継者として抜擢されるのが「レオナ姫」である。後に一国の王女になる。

画像1

画像2

(画像上:単行本7巻、画像下:単行本15巻)

彼女は戦闘能力が高くない。そのためパーティーの力になるべく、新たな破邪の魔力を得るために深いダンジョンを進んでいく。
そこで試練を受けるのだ。業火に身を焼かれ、「なぜ力を欲するのか?」と問われる。
それに対してレオナの出した答えが、以下のセリフである。

  信じているからよ、
  今まで生まれ育った大地を、国を。
  そしてそこに生きるすべての人々を。
  悪を倒すためでなく
  あたしたちの受け継いできたものが
  決して間違っていないことを
  証明するために。
  力が欲しい、それだけよ。

この言葉こそが、僕の胸に深く刻まれるものとなった。事あるたびに取り出しては吟味して、また大事に仕舞うようになったのだ。
いま改めて「詩」のように見える。近代ヨーロッパに見られるような、理念を高らかと謳った詩、と言って差し支えないと思う。

当時、僕は小学生。試練の炎に焼かれながら、勇猛な顔つきで語るロングヘアの姫に感じ入ったことを確と覚えている。
しかし「力が欲しい、それだけよ」の部分にどうしても拭えない違和感があった。
その違和感とはおそらく「何かを証明するためには力が必要なのか?」という問いであると思う。
ともすれば「勝てば官軍」に繋がりかねない、それが僕の感じた違和感の正体であった。

『ダイ』の箴言の中にはアバン先生が言ったこんなセリフもある。コチラの方が有名。

  正義なき力が無力であるのと同時に、
  力なき正義もまた無力なのですよ。

高明な哲学者、武道家らも同じような名言を残している。引用か影響か、はたまたオリジナルかは知り得ないが、思い当たる節の多い普遍的な思想だと思う。

レオナの答えにアバン先生の言葉を加味すると「勝てば官軍」にはならない。なぜなら「正義なき力は無力」なのだから。レオナの言った「力」は、おそらくアバンの言うところの「正義」を前提にしている。彼女が言うのは、倒す力ではなく守る力なのである。命が脅かされるときの守る力が肯定されるべきなのは、できれば反論の余地がなければいいなと思う。
(当然ながら「正義とは何か?」も問題になってくるが、沼にはまりそうなので、ちょっと横に置いておく)

ところで「故郷や国や人々を信じる」という感覚はこの漫画を読むような幼少期にはなかなか実感できないものだと思う。
「受け継いできたもの」というような体験も多くはないだろうし、体験が多少はあったとしても当人に「受け継いだ」感覚があることはまずないだろう。
レオナは姫だから若くして多くのものを背負っている。国土と国民を支えている公人だからこそ、さらりとあのような言葉を放てたのかもしれない。しかし歳月を生きていくと、この言葉は個人にも当てはまるところが多いのではないだろうか。

僕には20歳を越えてから、どうしようもなく自分に自信が持てない時期があって、その度にこの言葉を胸の内から取り出した。
良し悪しは多少あれど、僕にも歴史がある。僕を産み育ててくれた大地と家族があって、好いてくれた人や大事にしてくれた人、嫌う人や批判した人もいる。それらは動かしようがないただの事実だから、肯定も否定もなく、存在を信じるしかない。
人々が投げ掛けてきた行為や言葉を臓器の1つとして、そのときどきの自分の姿で立っている。だから「自分」に自信を持つ必要などないと思う。証明ならば大地と歴史がしてくれている。レオナの言葉通り「生まれた故郷と、国と、人々を信じる」だけで、自分の存在は充分に信頼に値する……とその当時、感じたわけだ。

30歳を越えてから、他人からいわれなき怒りや批判を向けられることがあったりすると、僕はこの言葉をまた取り出した。当然、口に出して相手に言ったりはしない。
ここで取り出すのは、自分を守るためとも少し違う。相手を侵略しないためである。目の前にいる、いくらでも敵と見做しうる相手にだって、故郷があり、かれを支持し、慕う人がいたりするわけだ。相手を100%敵と見做すのは、その背後にある歴史と大地に、つい盲目になってしまう自分のせいでもある。

人を否定する言葉がゴミゴミとそこら中に溢れかえっている。その言葉はある特定の人物や考え方を否定するだけではなく、ある歴史や地域や人々が培ってきたものを、そのザラつきで痛々しく擦っているのだ。
それはめぐらずとも当然のように、発信者に返ってきている。ほら、ヤスリを握る手に血が滲んで、あなたは苛々している。わたしもあなたもあの人も、故郷と歴史を持っているという点で同じなんだよ。

こんな甘い戯言を言う自分は「無力」だろうか、などとふと思ったりする。
剣としての言葉を持つ人は確かに強い。しかし僕は、言葉は盾の用途で使いたい。それは自分が断固として動かずに撥ね返すための堅い盾ではない。柔らかい繊維で編み上げた丈夫な生地のような、もっと言えばしなやかな強い皮膚のような盾として、紡ぎたいのだ。
僕が動けば一緒に形を変えて動いてくれるような、頼もしい同胞としての言葉の盾。

 綻んだ場所ができたら、また編み直せばいいよ。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!