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デュフィ《パリ》を忍ばせて

部屋の片付けをしていたらこんなものが出てきた。

ラウル・デュフィという画家のプリントハンカチ。原画《パリ》は四面の屏風仕立てで描かれたもので、縦は身長を越えるくらい大きなものだ。

箱根のポーラ美術館所蔵の作品。記憶は定かではないが、原画を観たのもハンカチを買ったのも、その場所でだったと思う。おそらく10年以上前。

ちゃんと調べないで行ってバスの時間と噛み合わず、箱根の山道をひとりで歩いた。標高による涼しさを差し引いても、うだるような暑さの日だった。

それからデュフィという作家が気になり始めて、特別展に何度か足を運んだものの《パリ》初見の日ほどの衝撃は得られなかった。

もちろんデュフィの作品はどれも大好きで、自由が丘にある画廊にリトグラフを買いに行ったこともあるくらいだ(片道2時間😱)

部屋の片隅に飾っておきながらなかなか視野に入らなかったハンカチを見つけて、なぜ《パリ》だったのか?と考える。考えた。

色彩の強さ、四面屏風の技法、薔薇のモティーフ……それっぽい理由はいくらでも浮かぶのだが、どれもしっくり来ない。

山道を歩いた身体的なコスト、若かりし頃の思い出補正、ポーラ美術館の初体験……どれも否定はできないのだが、やはりしっくり来ない。

また別の機会にポーラ美術館を訪れたとき、《パリ》の場所は《ゲルニカ(タピスリ)》に置き換わっていて、ひどく寂しい気持ちに襲われた。
まるで谷川俊太郎の詩「かなしみ」のように、どこかにとんでもない落とし物をしてしまった気がしたのだ。

詩人であれば何かしらの色彩を胸に秘めていることだろう。画家とはまったく違う方法で、それを白い紙に黒いインクで表現するのだ。

デュフィの色彩はきっと憧れつつ、自分の胸にも秘められているものなのかもしれない。ただ僕は、厭世観ゆえにそれをうまく表現する術を持たない。

できれば(今は)持たない、と言っておきたい。

あの日の衝撃と、今このハンカチを手にして感じる郷愁にも後ろめたさにも似た感情の理由が知りたい。
僕には何が出来て、何が出来ないのだろうか?
それは出来ないままで一生を終えても良いものなのだろうか。

大片付けのさなか、さまざまな本や物を捨て去った。捨てるものと残すものを選り分けていると「問答無用で残すもの」が明らかになってくる。《パリ》のハンカチはそのひとつだった。

先日、詩の神さまに顔向けできるか、という趣旨のエッセイを書いたが、それにも少し似て、この絵画に顔向けできないような悲しさが胸に滲んでいる。
果たして答えは出るのだろうか? どのような日々を送れば、どのような創作を重ねていけば、この特別な鑑賞体験に胸を張って向き合えるのだろうか。

最近はそこそこ忙しい日々を送っており、創作にも読書にも時間を割けない。美術展にもセーラームーン展にもダイの大冒険展にも行きたいが、それもなかなか難しい。

創作の底流が顔を出したのは、そのようなクライシスにも決して侵されない源泉を見せようとしてくれているのかもしれない。
《パリ》の醸す抒情にあやかるために、ハンカチをそっとポケットに忍ばせてみた。


*書き殴っただけの雑文です

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