エッセイ「詩と小説」2. #執筆観

 室生犀星は1910から20年代は詩を多く書き、1930年代には小説の多作期に入った。1934年には『詩よ君とお別れする』を記し、詩との決別宣言を述べたが、その後も詩作を続けている。

 愛を唄う詩人は、出自や容姿のコンプレックスを克服するために詩を書いた。もっとも弱い人間が、もっと弱い人間を見つけ、手を差し伸べたくなるような詩だ。弱い人間は他人に手を差し伸べる瞬間だけは強くなれる。その差し出した肩から腕から手指までの全ての関節の感覚を記憶し、握り返してきた手の感触を忘れないことで、また他の人間を救う。そしていつしか、手を差し伸べられていたのが実は自分であったことにも気付いて、笑い話のように孤独も傷も語れるようになる。

 詩は手を繋ぐこと。

 ある研究者が〝室生は精神的に安定している時は小説を書き、それが破綻しかけたときに詩に戻る〟と述べていた。なるほどな。
詩が手を繋ぐことであるなら、小説は肩越しに見守ることなのかもしれない。どちらも救うに変わりはないが、その時の自分の状態によっても表現する手法は変わってくるのだろう。小説には悟性が不可欠だ。詩作に必要な理性とは若干異なる。

 余談ではあるが、室生の詩には汎神論的世界がある。汎神論こそ、皆が皆、手を取り合って生きていることの概念そのものであると、僕は思う。しかし手を取り合うだけでは救われないものもある。そこには見守る強さが必要で、小説ならなし得るのかもしれない。僕が辿り着きたいのはそういう文章。道は果てしなく長い。

#詩 #小説 #執筆

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