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10. 暁の礼拝にて(アルタ①)【花の矢をくれたひと/連載小説】

不定期連載の『花の矢をくれたひと』
インド神話をベースにした小説です。
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【登場人物】

アビルーパ(愛神カーマ、悪魔マーラ)
魔神シヴァを射る宿命を負った愛神カーマの化身の1つ。ウッジャイニーに住む司祭バラモンの子息。

ヴァサンタ
春の神ヴァサンタの化身。ヴェーダを学ぶためにアビルーパの家に出入りしている武士クシャトリヤの子。

シャイシラカ
アビルーパの父。地域の有力なバラモン。「ジー」の敬称で呼ばれる。

シュカ
愛神カーマに仕える鸚鵡おうむ。今はアビルーパのペットとして飼われている。

New‼︎  ダルドゥラカ
商人ヴァイシャ家系の子息。ヴァサンタと同様にシャイシラカのもとでヴェーダを学んでいるが、その正体は……

【前話までのあらすじ】

魔神シヴァを射る宿命を背負った愛神カーマは、有力なバラモン家系の子息アビルーパとしてグプタ朝時代(4世紀)転生した。ヴェーダ朗誦の修行の末に火神アグニより「焦熱の矢」を授かる。しかしシヴァを射るためには3本の矢が必要なことを悟り、ヴァサンタと共に捜していくこととなった。

10. 暁の礼拝にて(アルタ①)


 意識の世界で火神アグニと対峙してから、アビルーパとヴァサンタはすすんで「矢」に関する情報を集めるようになった。しかしふたりの期待に反して「近隣の富豪が蔵する骨董品の矢」以上に耳寄りな情報は出てこず、シヴァを射るために使える伝説の武器なんて夢のまた夢のように思われた。

 気持ちの焦りに反して身の回りでは淡々と日常が過ぎていく。朝晩の沐浴、礼拝、ヴェーダの朗誦……《こんな退屈な町にいて本当に大丈夫なのだろうか》アビルーパは旅に出たいような気持ちが胸底に沸くのを感じながら、一方でそれを必死に抑えていた。というのも、彼にはこれまでに何度も神託を受け、転生した経験があったからである。《もしこの時代、この場所のアビルーパという男に役割がなくなったとしたら、きっとまたどこかに転生させられているはずだ》そんな確信めいたものがあった。アビルーパはバラモンの子としての生活を受容しながら、来るべき時を待っていた。

 東の空が明るみ始めた。アビルーパは朝の沐浴と礼拝を行うために、都市の西側を南北に流れる河川──下るとヤムナー川、ガンジス川に合流していく聖なる川のひとつである──へと向かった。川岸にはすでにちらほらと修行者の影があった。アビルーパは愛神カーマの時代、ガンジス川と共に生きる聖都ヴァーラーナシーの民の沐浴を、鸚鵡シュカに乗って上空から目撃したことを思い返した。あの大仰で賑やかな行水と比べると、眼前に広がる祈りはだいぶ慎ましいものとして映る。しかしこの川と彼らのことを「寂しい」とは思わなかった。アビルーパは祈りの大きさと小ささの双方を父シャイシラカから学んでいたからだ。

 川で沐浴を済ませると、麻の下衣を穿いて腰帯を巻いた。合掌し、できうる限り低調な声でヴェーダにある讃歌を朗誦した。

オーム
物質界、心の世界、因果の
世界に満ち満ちている
至高たるサーヴィトリーの実在を讃える

 サーヴィトリー讃歌。サンディヤーと呼ばれる薄暮の時間に吟じられる歌だ。朝は夜の罪を除去するために太陽が出るまで続け、夕は昼に作られた罪を除去するために星が見えるまで続けられる。沐浴とサンディヤーの礼拝はセットで、毎朝晩繰り返される。
 アビルーパは感覚を制御し、この朝もよく勤めた。遠くの地平に太陽が顔を出し、礼拝者がぽつぽつと町へと帰っていく中、彼はもうしばらく祈りを続けた。罪を清めるための礼拝の他に、希うべきことがあったからだ。それは神々の世界の平和と、自身と友のこれからの健闘に向けられたものだった。

 合掌を解き、眼を開き《さあこれからまた一日が始まるぞ》と振り返ったその時、アビルーパは自身の背後でひとりの男が礼拝していたことを見取った。男の方も振り返ったアビルーパに気づくと、うやうやしく頭を垂れ「私は商人ヴァイシャダナミトラの子、ダルドゥラカです」と言った。名乗りは目上の者に対する挨拶のひとつだ。
 アビルーパが手の仕草で受け入れると、ダルドゥラカと言った男はゆっくりと首を伸ばして顔を見せた。細長い輪郭に切長の目と高い鼻、薄い唇がバランス良く収まっている。長身の体は充分に引き締まっており、肉体労働の痕跡がうかがわれた。
「アビルーパさま、唐突に申し訳ありません。あまりに熱心にご礼拝されておりましたので、声をかけずにご一緒させて頂いた次第です」男はそう言って、再び合掌し一礼をしてみせた。アビルーパはその顔と仕草と声から、彼が父シャイシラカの元でヴェーダを学ぶ者たちのひとりであることにようやく気づいた。ダルドゥラカはアビルーパより少し年上だが、相手は師の子息であり、身分の違いもあるため、敬う姿勢を取っていた。
「ああ、ダルドゥラカ、気が付かなくてすまない」
「いえ、シャイシラカ・ジーのお宅には人の出入りも多いでしょうから、仕方ありません」
ふたりは言葉を交わしながら、自然と町の方へと歩き出した。
「何を熱心にお祈りされていたのですか? 礼拝が済んでも祈りを続けるのは殊勝なことでたいへん感じ入りました」
「いや、大したことではないよ」
「もし何かお困りのことがありましたら、いつでもお声がけください。商人風情がこんなことを言うのは失礼かと思いますが、世俗のことでしたらお役に立てるかもしれませんし」ダルドゥラカの言葉は丁寧だったが、その無遠慮さにアビルーパは少し気押された。親友のヴァサンタにも図々しいところはあるが、好意とは違う妙なものを感じ取ったのだ。
「時に……ジーの僧団の中で最近、貧困にお困りの方や不満を洩らす者の話を聞いたりはしませんでしたか?……」ダルドゥラカは先程アビルーパの礼拝を褒め称えたのと同じ低い語調のまま尋ねた。さすがに何かしらの不穏な意図を感じ取ったアビルーパは一旦押し黙った。

「はい、そこまで!!」突如としてふたりの間に割って入ってきたのはヴァサンタ。
「ヴァサンタ!?」サンディヤー礼拝の時には姿が見えなかったので、アビルーパは驚きと安堵とを同時に感じて声を漏らした。《こいつ本当に春風のように現れるな》と内心で微笑みながら。
「もうっ、アビルーパはまったくガードが甘いんだから。僕以外の誰かとふたりきりになるなんてどうかしてるよ」ヴァサンタは熱っぽい視線を友に向けながら嫉妬心を剥き出しにした。しかしこの時ヴァサンタは、自身の行為は友を救うものであり、断じて友に迷惑をかけるものでないという自信を持っていた。そして「さて……と……」と仕切り直すように呟き、体格の良いダルドゥラカの顔を見上げた。

「君さ、王国の諜報活動員スパイだよね?」ヴァサンタは普段の抒情詩を朗じるような口調を封じ、重々しく問い詰めた。立ち止まる三人。ダルドゥラカの顔は逆光で半分塗りつぶされていたが、ヴァサンタの追及にたじろいでいるのは明らかだった。


── to be continued──


【簡単な解説】

古代インドの生き方の模範として、4つの住期(アーシュラマ)というものがあります。学生期、家住期、林住期、遊行期の4つです。この制度は、出家遊行に憧れる宗教が隆盛を見せた社会において、若者や壮年者を世俗に引き留めておく役割を果たしました。
作品内に登場するアビルーパ、ヴァサンタ、ダルドゥルカの3人はいずれも学生期(ブラフマチャーリン)に属しており、これは師の元で聖典ヴェーダを学ぶ時期です。3人はそれぞれ違うヴァルナ(宗教的身分制度)に属しています。バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャの3つは再生族と呼ばれ、ヴェーダの学習が許されています。学生期に入るための通過儀礼をウパナヤナといい、これが第二の誕生とみなされるために再生族と呼ばれるのです。再生族はその3つの身分によっても、入門の時期、身につけるもの、序列や礼儀作法、修了の時期などが異なってきます。
しかし『マヌ法典』はこのような身分制度だけでなく、尊敬を受ける要素として学問の重要性も確と説いております。バラモンであり師の子息であるがヴェーダの朗誦がイマイチなアビルーパくんは、ビミョーな立場に置かれるわけです。

古代インド王政におけるスパイについては、次話以降にご紹介します!

参考・引用文献)
渡瀬信之 訳『マヌ法典』平凡社
上村勝彦 訳『実利論(上)』岩波文庫

【ご注意】
本作は何らかの宗教的信条を伝えたり誘導するために書かれたものではありません。また時代背景や史実とは異なる点も多々あり、あくまでエンターテインメントの1つとしてお読み頂くようお願い申し上げます。

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