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小説『あれもこれもそれも』2-10 最終話

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小説『あれもこれもそれも』
Story 2. 遊女の廊下 -10 最終話

 幾度となく魂の交換をしたはずの私の恋人。外でどんな顔をしているのか、実は知らない。それを教えてくれるのは、私の周りには健斗ただ1人しかいなかった。
「ねえ、私の彼ってお店ではどんな感じ?」
(前話)


 行為を終えて横に寝そべる青年に尋ねる。予期していなかった質問に、彼は目をまん丸くした。
「えっ、なんて言ったらいいか。紳士って感じっすかね」
「……紳士が彼女にこんなことさせるかしら」
「サキさんも了承済みって聞いていました」
「そうね。でも男と女の了承は少し違うのよ」
 青年は真摯に困惑した表情を浮かべた。こういうところは圧倒的に若い方が良い。男女論を持ち出してきた時、男は年齢が上がるにつれて次第にめんどくさそうな顔になっていく。
「サキさん」
 健斗がすり寄ってキスをしてくる。なんだかねちっこくて分厚い唇の向こう側に強健な歯の感触を感じた。そう、持て余した葛藤は性的な行為に変えていくのが、実はもっとも健全なのかもしれない。この青年のように主体性をもってすれば。
 しかし彼がどんなに激しく私を求めようとも、歯の感触のようには受け止められない。この青年を可愛いと思ったとき、タルトを食べようと言われたとき、そして今日エクスタシーを感じたときも、確かにほんの一瞬だけ小さなキラキラとした結晶がいくつか胸の中に生まれた。ちょうど今日履いているサンダルに散りばめられたビジューのように、たしかに形のあるものだった。
 しばしその美しさを眺めて、夢見心地に浸っていればよいものを。私はそれをきっかけに人の奥底にある〈欲望の霧〉を見つめてしまう。霧はあまりに濃すぎて源泉にまでは辿り着けそうにない。その膨大な気体の一部がひととき結晶化したとしても、またすぐに新たな霧の奥底へと飲まれてしまう。
 歴史上の遊女や男妾たちとは、霧の源泉を共有しているように思う。恋人もそうかもしれない。彼らも私も、霧のような状態でしか人と繋がることができない。全てを差し出しているようで、何も差し出さない。吹かれたら飛んで何も残さない。なのに絶えず湧き出て止まない、ただ纏わり絡み合い、繋がりたいとだけ願う欲動の霧。
 幾年にも渡る夢が過ぎ去ったあと、私の手元には何も残らなかった。もし数多の宝石が生まれゆくのを掴み続けていたら、万華鏡のような景色でも見えていたのだろうか。
 いや、きっとその時には自分の穴の深さに慄いて、宝石を見せてくれた人を置き去りにし、ただ消えていったのだろう。

「これで私と会うのは最後にして、彼とも距離を置いた方がよいと思う」
「……えっ、どうして」
「彼が何か悪いことを考えているから。ね、変なことに巻こまれないうちに、会うのはこれで最後にして」
「いやだ。俺、サキさんのこと好きだ」
「私は別に好きじゃない。ちょっとセックスしたからって恋人みたいなこと言わないでよ」
「でも……いやだ」
 健斗は裸のままベッドの上に居座った。鍛えられた太ももが無力さに打ちひしがれて、だらりと弛緩している。
 私が下着を着けて、スカートを履き、キャミソールをかぶってシャツを羽織る間、その1つ1つの作業を、彼はずっと押し黙って俯いた姿勢で受け止めていた。
 そして私は初めて、自分から部屋を出て行った。


 歩き慣れた無駄に長い廊下は、私が決断をするのに充分な時間をくれた。〈つれづれ〉で紳士的だという恋人。一方で、狂気がどんどんエスカレートしていく恋人。二面性なんかじゃ説明しきれない。きっとその危うさには当人も気づいていないのだろう。
 本当はこのまま彼と、彼の悪事と心中するのが正解なのかもしれない。きっと罪を共にすることが、最後まで添い遂げることになるのだ。それこそが小紫様の幕の引き方だった。

——しかしやっぱり私には見えないのです。彼と私の比翼塚は。

 私の中の小紫様は答えをくれない。ひょっとしたら彼女はもう死んでしまっているのではないだろうか。
 ……きっと、そうに違いない。江戸時代の初期からは、すでにもう400年近くが経っていた。私だって、遊女が務めを終える〈年明き〉の年齢などとうに過ぎていたのだ。もう誰の庇護もないし、おそらく要らない。

 ホテルを出て歓楽街を抜けると、相変わらず灯の少ない街並み。ふいに私の名前を呼ぶ艶やかな声が降って届いた。天を見上げると、いつか見た水と光のイルミネーションが空一面に広がって、波紋はすぐに消えた。その刹那の時間で、私の5年間は報われたように思えた。
 私はスマートフォンを取り出し、あらかじめ抜き取っておいた恋人の妻の番号をコールした。
 懺悔をするつもりもないし、果たし合いをするつもりもない。だって私は遊郭の女なのだから。ただ、恋人を救うのに私1人では役不足だと思ったから、そうしただけのこと。


♢ Story 2. Fine. ♢

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