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小説『あれもこれもそれも』1. ③

あれもこれもそれも
story1. 呪術的な日常 ③

「拓人、今日大学は何限から?」
 髪ぼさぼさでパジャマ姿の恋人は、朝一緒に過ごす時間の中で少しずつ存在する世界を変えていく。この会話が進むにつれて、僕のいない世界を見つめる眼になっていく。少し寂しくもあるけど、その過程を見られることはたぶん僕だけに与えられている特権だから、実は少し嬉しかったりもする。
「木曜は2限だけだよ、前にも言ったじゃん。呪術とか黒魔術の話ばっかりする教授。シラバスには文化人類学のまともな内容が書いてあったから騙されたって」
「ああ、それ今学期の話だったっけ? それだったら拓人はうちでもう少しゆっくりしていく?」
「ううん、いちど家に帰るから。一緒に出るよ」
「オッケー。今日はバイトない日だったよね。仕事の目処が立ったら連絡するね」
 芳彦はそう言ってドタドタと洗面台へと向かった。
 テレビのニュースキャスターの声の上に、蛇口から勢い良く水の出る音が乗っかる。週のうち半分くらいはこういう朝を過ごしているから、タイムリーとも言い難いのだが、ニュースでは『LGBT等に対して差別を解消する旨の法案が衆議院で可決された』という報道が流れている。
「うちらにはあんまり関係ないよね」
 僕はわざと彼の洗顔中を見計らってそう呟く。すると予想通り、
「え、何か言った?」
 という返答が返ってきたから「なーんでーもなーい」と適当にあしらった。
 皆が差別に怯え、憤っていると思ったら大間違いだ。マジョリティと同じ権利など、はっきり言って求めていない。求めても簡単に与えられないことは様々な歴史が証明しているし、与えるのがマジョリティ側であるという構図にも正直違和感を覚える。法律や制度がなくても、人からの祝福がなくても、人間何かが不足すれば、生存するために何かで補うようになる。僕たちは、苦悩や違和感の先を、工夫や試行錯誤を繰り返しながら生きてきた。だから「差別しません」なんて言っている人たちのことは二歩後ろにいると思っているし、ましてや「異常者」だなんて言う奴はおそらく五歩くらい後ろにいる。
 僕にはこの世界だけでいい。ここに隠れていたいから、そっとしておいてほしい。社会に出ても、粛々と我慢して稼いだお金で芳彦と生活が出来たらそれでいい。こんな朝だけ続けばいい。恋人の傍で1年を過ごして、そんな風に思うようになった。
 ……しかし、ひとり芳彦がいなくなるだけで足元の全てが崩れて、こんな大口を叩けなくなることも、僕には分かりきっていることだった。

 家から2人で外に出ると、何気ない光景にキラキラとした光りの粒が散りばめられている。道路を固める漆黒のアスファルトですら、僕らの朝を飾り立てる名脇役たちを抱えている。芳彦と僕はマンションの前の通りを2分ほど一緒に歩いて、2つ目の交差点で左右に分かれた。

 彼は自身の性的指向を全く隠さない。敢えて自分から言うこともないようだけど。こうして朝2人でマンションを出るときも、いつだって堂々としている。僕はその背中に隠れるように、ただ後ろをついて歩いているだけだ。感情ばかりが偉そうに先を行くけれど、現実にはまだ自分で何も決められていない。これからどうして生きていこうか。家族にも友人の誰一人にも、自分のことを明かしてすらいないのだ。
 こうして朝彼と別れる時にときどき思う。実は僕の方こそ、芳彦のいない世界に向かっているのではないかと。そんな小さな不安と罪悪感は〈にがり〉のようなもので、容易に形を変えてバラバラになりがちな僕の感情を繋ぎ止めてくれている。自分の性を持て余す時も、自分の性から逃げたくなる時も……ちゃんと彼の元へ帰ろうって。
 アルバイト先のラウンジが契約している駐車場に着き、腕時計の針を見る。午前7時を過ぎていることを確認してから、車に乗り込んでエンジンを回した。親に買ってもらった中古車、か。


#小説 #詩 #エッセイ #あれもこれもそれも #呪術的な日常

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