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助手席で書を読んで【エッセイ】

マニュアル車に乗らなくなって久しい。僕が生活していく上でクラッチ操作は必要のないものだった。運転免許を取得したXX年前はまだ「男が免許を取るならマニュアル一択」みたいな風潮が(少なくとも僕の周りでは)あった。今や免許を取らないこともフツウで、いい時代になったなと‪思う。僕だって通勤や買い物に必要だから運転しているだけであって、正直運転しなくて済むのならオートマ車ですら運転したくない。日々、おかかえ運転手を切望している。

これほど車や運転へのこだわりがない僕だが、免許を取得したときに「クラッチ操作」という概念を知ったことは、後の人生に大きな影響を与えたように思う。いちドライバーでしかないので詳しくはないが、簡単に言うと、エンジンの動力をタイヤへ伝える具合を調節するための装置である。
アクセルペダルを踏んでいてもクラッチペダルを一番奥まで踏み込んでいれば、動力は完全に伝わらないので車は動かない。いわゆる「空回り/空吹かし」の状態だ。また、アクセルを100で踏んでクラッチペダルで50に調整した状態と、アクセル50で踏んでクラッチで調整しない状態とは、同じように見えて全く異なる運転が行われている。

動力の有効率について考えると、僕はいつも意識と注意の話に向かう。

ヒトの意識は不思議なもので、散歩をしていても会話をしていても、その都度、見えているものや聞こえているもの、覚えているものが大きく違ってくる。同じ速度で歩いて、同じ速度で会話しているのに、注意や緊張の具合によって認知できるものの量も種類も変わってしまうのだ。
このようなことは読書においてもしばしば見られる。同じ本、同じ速度で読んでも、あなたとわたしが掬うものは違うだろう。教養書の一冊から100学ぶ者もいれば、10知ってすぐ忘れる人もいるように。

読む速さや理解という結果を、車の構造で喩えたいわけではない。「読もうとする意欲や力」を「テクストに注力」する具合が、クラッチ操作によく似ているのだ。一言一句漏らさないよう、読書意欲の全てを読書行動に変えて読むことの方が少ない。それは流れも大事だからだ。読み流していい場所、読み流した方がいい場所を無意識に決めて、めいめいがクラッチを踏んで吹かしているのだと思う。そのクラッチの調整は、速度や集中力にも左右されるだろうし、語彙・読書体験・実体験によっても引っ掛かり具合はきっと違ってくる。

これらは殊に詩歌を読む時に発揮される能力でもある。詩の持つ多層構造・多元構造がわたしたちに開いてくる瞬間は、自身ではなかなか調整しにくい。眠れない夜に救いを求めて一言一句確かめながら読んでも理解できないのに、電車の中でふとパラパラめくっている時に人生を代表する言葉に出会ってしまったりする。
アクセルを踏み込む(読み込もうとする)、クラッチを完全に離す(テクストに注力する)ばかりが文章を豊かに読むことに繋がるとは限らない。この2つの絶妙なバランスが、書の多元的な世界を開いて豊かな体験を与えてくれるのだと思う。
そういえばとある書に「詩歌を読むとはボーッとする(茫とする)ことだ」と書かれていた。それはまさに、行動と意識とをクラッチで調整することに他ならないだろう。

よく聞く「詩は難しい」というのは、ただの「作者の想いを述べているのは次のうちのどれか?」病、「作者の意図を100字で説明せよ」病であると思う。国語教育の功罪である。それはアクセル全開クラッチなしの一元的なテクスト読解に過ぎない。鑑賞はもっと自由で気楽でいい。私たちにはクラッチという最大の発明があるのだから、それを利用して風通しの良い鑑賞を楽しめばいいと思う。

いや、むしろ創作する側として、もう少し運転に配慮できないものかと自省もするのだ。読者に快適なドライブを堪能してもらうために、テクストの中にちゃんとクラッチを備えているか? イヤな運転はしてないか……急発進、急ブレーキ、急カーブ、カクカクした運転、挙句の果てにエンスト。おお、耳が痛いではないか。
思えば文章を書くことに免許は要らない。要らない方がもちろん良いのだが、自分の文章は基本的なところでまだまだ修正の余地がありそうだ。

実際に助手席で本を読むと酔うのでやめましょう

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