俳句の胸に飛び込んで【エッセイ】

Kusabueさん主催の「現代語俳句の会」で句を発表させて頂いてます。
詠み始めて1年足らずの僕が俳句の心や技法について何か重要なことに気付けたわけではないし、気の利いたことを書ける気もしません。今日は個人の備忘録として「今この時」に俳句とどのように向き合っているかを書き残しておきたいと思います。創作に行き詰まっているであろう未来の僕へ。役に立ったらいいな。

【俳句と詩を前にして】

今更ですが俳句は五・七・五の十七音で詠む韻文です。字余り、破調などもありますが、基本的にはこのリズムを採用します。たとえば同じ景観・機知・余情を込められるのであれば、正規の調律で詠むほうが「優れた俳句」とされるそうです。また無季という例外を除いては、季語を含むこともルールとされます。

僕は長年、詩を書いてきました。詩というものは俳句と違って「例外」だらけの文芸です。意味や展開を書く散文ではなく、歌詞でもなく、短歌でも俳句でもないもの、それが詩です。現代の詩では、行数も語数も作者が自由に決めて良いし、時には誤った文法を用いたり、外国語や無意味な言語を使用することもあります。それらの技法は全て詩情をあらゆるベクトルで表現するために向かうと言えます。

では俳句のように厳しい制限のある韻文が目指すところは何なのでしょうか? そして詩を書いているぼくが俳句を学び、これからも続けたいと思っている魅力はどこにあるのでしょうか?


【主役は「わたし」じゃない】

俳句を始めたての頃には「十七音じゃ自分の感動を込められないよ!」という感覚がよくありました。文字数がつい多くなり、あっち立てればこっち立たず。初心者にはありがちなのでしょうか。散文や詩で用いられる「強調するための逆説・反語」も、現代語の場合は文字数を必要とするので俳句で使いにくいのです。何かを削らなくてはならない……その時、削るべきなのは「わたし」だと思いました。例としてふさわしいか分かりませんが、僕のお気に入りの一句、高浜虚子の作品を紹介します。

この庭の遅日の石のいつまでも

季語は「遅日(ちじつ)」日が延びて容易に暮れなくなった春の日を表す季語です。「庭」は「龍安寺の石庭」をさします。
春になって日が延びたから石庭の石がいつまでも(わたしには見えている)という意味です。この句では隠れた主語「わたし」と述語「見えている」は一挙に削られます。こうして石が主役となり景観に重点が置かれることにより、読者は作者と視点を共有し、臨場感が高まるのです。もしこの句で「わたしには見えている」のように書き込めば、読者にとっては石庭を眺めている虚子の肩越しに石庭を眺めることになるでしょう。動作者を削ることによって生まれる臨場感は俳句の魅力の1つだと思います。(またこの句では、それによる無駄のない形式美が、俳句と石庭とで共鳴しているような印象さえ受けます) 他方で、主語述語を省いても状況を損なうことなく表現できるかどうかは、書き手の力量にかかっているとも言えます。


【主役は「季語」だ】

しかし僕は諦めが悪い。主役を景観に引き渡しても、やはり「わたし」の感情・感慨をどうしても詠み込みたいと願ってしまいます。そうなると字数やリズムとの再戦は免れません。
そこで季語の含意や先人の句の重層といったものが大事になってくるのだと思います。季語は主役であり景観を表すものでありながら、「わたし」の感情を象徴するものでもあります。「春風」を詠めば穏やかな開放感、「シクラメン」ならば慈しむような愛情。このような季語の含意を、描かれていない「わたし」に呼び込むことができます。「わたし」の方が季語に寄っていく感覚、と言った方が適切かもしれません。

加えて、まだ僕には出来ない手法なのですが、「季語」と「その他の表現」をぶつける「取り合わせ」では、もっと絶妙な感情の多彩な表現が可能になってくるのでしょう。季語にどのような含意があるか、どのような取り合わせが用いられているかは、先人の句が非常に参考になります。季語の世界には和歌の本歌取りのような豊かな奥行きがあると思います。


【自分への囚われを潔く捨てる】

ある程度、語の選択ができたら、それを並び替えたり切れ字をどうするか、助詞をどうするかなど、試行錯誤します。4月に僕が詠んだ句を例に出してみます。

(推敲後)鰆なら焼けるだろうか仲直り
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(推敲前)仲直り鰆焼いてる手を見つめ

この推敲前から推敲後までの間に5〜20句くらい、様々なパターンを試して書いています。当然ながら推敲を繰り返す度に、最初の情景からはズレが生じてきます。
例に挙げた句は、当初はフライパンで鰆を焼きながら仲直りをしたいと考えている感情を詠もうとしました。しかしこれだと主役が鰆なのか仲直りなのか、それとも手なのかよく分からない。加えて「見つめ」と動詞が出てくることで、どうしても句の中に「わたし」が登場してしまいます。

ということで季語「鰆」と「仲直り」の取り合わせの力を信じて、バッサリと「わたし」をカットしてみました。どちらが良い句かは一目瞭然かと思います。収まりや読み口が違います。
……が、しかし、推敲後の方には明らかな嘘があります。だって僕は料理まあまあ得意だもの(笑)。鰆くらい簡単に焼けます。
しかしそんな嘘を含みながら完成された句は、師匠であるKusabueさんに「情景・状況の肝心な部分だけを的確に切り取っている」とご評価いただきました。俳句の型に合わせることで、当初自分が詠みたかった情景とは異なってしまうことがあります。それもたった一文字の過不足で断念せざるを得ない、なんてことも。でも僕はそれをマヤカシだとは思いません。きっとその句はそのように詠まれる運命なのでしょう。

俳句の目的は自己満足の日記やメモのためではなく、読者に感慨を呼び覚ますことだと思うのです。少なくとも僕は人の作品をそのように読んでいます。感情に合わせて言葉をはめ込んでいくよりも、型に感情を合わせていく方が読み口が格段に良くなります。つまり句としての完成度が上がります。そうして試作を重ねる度に、情景や自分の感性を再解釈するお気に入りの句が出来上がったりもします。

自分の感性、感情へのこだわりを一旦横に置いて、主役を景観に引き渡す。見たもの、取り囲むものに自分の感情を預けてみる。すると「わたし」への囚われが解放され、いつの間にか自然や社会との繋がりを取り戻している。俳句にはそんな力があるのではないかと考えています。

以上が、今の僕の俳句との向き合い方です。文芸をしていると、自分の感情や表現に囚われてしまうことがままあります。しかしある作家が「小説の方が向こうからやってくる」と言ったように、世界を受け止め、世界に抱かれに行く姿勢も大切だと感じています。俳句にはそのような能動とも受動とも言い切れない不思議な世界が広がっており、その懐の広さに僕は魅了されるのです。

読んでくださりありがとうございました。


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