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小説『あれもこれもそれも』2-2

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
story 2. 遊女の廊下 - 2


——悪いこと
 そう、恋人は〈悪いこと〉を考えていた。

 1週間前の宵の口、私は彼に抱かれていた。40歳を過ぎて強さが衰えてきたとは言え、男の体はむしろしなやかに機能する。その下で私は良い声で鳴いてみせた。私たちのセックスは、もう既に完成しつくされている。長年に渡る蜜月は、私が絶頂に至るまでの経路のいくつもを彼に示し、また私には男の背中の皮膚に傷跡が残らない程度の爪の圧力を教え込んでいた。
 彼を盛り上げるための声色も、反射のように体に染み付いている。ただ始めた直後は演技で出していても、盛り上がっていく彼を受け止めているうちに、私の声は次第に本物へと変わっていく。
 しかし、それとは打って変わって、彼の脳の中はいつまでも寂静で、冷めた瞳孔に変化は見えない。首から下だけが別の生命体として、極めて動物的な行為をしているようだった。
「感情的にならなくて良い」
 彼はそう言うものの、一見都合の良さそうに見える性的関係は、皮肉にも精神的関係をも長引かせている。

「悪いこと……」
 私はそこまで言ってその口を噤んだ。汗がにじみ出るのが止み、視界がようやく現実世界を映し始めた頃、フェード・インするのは隣に寝そべる恋人の横顔。それは不気味なほど、期待を膨らませた笑みを湛えていた。そこにくっきりと焦点が合った瞬間、整い始めていた私の息は一挙に引っ込められた。悪事に誘う流し目……それを受けた私は天井の先を見つめ、いつの日か一緒に見た水と光の天井を探す。そして乾き始める唇を舌で濡らした。
 言葉を継がずに押し黙った私を見かねてか、
「悪いことじゃなくて、いいことだよ」
 と彼は言った。詭弁ではなく、心底そう信じて疑っていない顔つきだった。
「悪徳ってことでしょう?もうわかっているから」
 つれなくそう返すと、恋人は肩や胸にまだ緊張の残る体を起こした。何を言い出すのか不安になる。
「若い男に抱かれてみないか?」
「いやよ、若いのなんて」
 突飛な提案はすぐに突っぱねた。近頃はすでに、返答に臆する自分を乗り越えていたのだ。
「日付が変わっても嫌だって言えるか」
「多分ね」
「では週が変わったら」
 少しだけ間を空ける。
「おそらくね」
「じゃあ月を変えよう」
 いちいち間髪を入れずに恋人は畳みかけてくる。しばらく沈黙が続き、夜が流されるような川音が遠くに聞こえた気がした。
「……あなたには会えないってこと?」
 乱れた髪を大きく掻きあげる。そして打つ手がなくなって男に屈しようとしていることを認めた。これまでも、そんなフリをして自分の方が優位に立っているような錯覚を得ては、自己満足するようにしてきた。それは独占欲や嫉妬心が肥大しないように。
 彼は何も言わず私を抱き寄せた。微妙な感情を無視したフリをしながら、悶々としたものも含めて総て大きく包み込んでしまう。呆れ、諦め、その他。
「今度はどんな人?」
 興味はなかったけれど、いちおう訊ねてみた。それに対して恋人は「憎しみ合う若い男たち」と短く答えただけだった。


 こうして彼の悪事を叶えるためにホテルに来たけれど、彼がいったい何を考えているのか、これから何が起こるのか、私は全く知らない。
 303号室の前まで来て、自分がだいぶ感傷的になっていることに今さら気づく。5年前のセックスと先週のソレとを並べて感慨に耽るなんてどうかしている。
 一瞬〈潮時〉という言葉が脳裏に浮かび、首を振って必死に打ち消した。最近やけに登場頻度が上がってきている単語だった。マンネリを打破するための何かがあればいいと思っている。でもそれが今夜訪れることに、はたして期待できるものだろうか。
 ドアをノックすると、すぐさま中から慌てたような足音が響いて、床の振動が外まで伝わって来るようだった。扉が開かれ、背が低い人のシルエットが私を迎え入れる。
 私は、見知らぬ男の期待が充満する部屋へと足を踏み入れた。


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