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小説『あれもこれもそれも』4-1

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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -1


 床も天井も四面の壁も、全て同じ色だ。たぶん。油分の染み込んだ黒い汚れがすべての面に見られ、部屋の構造を見失わせる。広い面が押し寄せてきて、自分を閉塞してくるようだ。窓もないその部屋の空気は、一体どれくらいの時間、そこに停滞していたのだろうか。申し訳なさ程度の薄っぺらい布団が、まるで投げつけられたかのように、よれて自分の胴に乗っけられている。音のない空間。あまりの静けさに酔いそうになる。
 同じ感覚で目を覚ましたのは3度目だ。
 1度目。部屋の閉塞感からか声も出せずにいると、医師と看護師と思しき男女が部屋に入り込んできて、意味の分からない言語で会話をしていた。どんな声をあげても理解してもらえなさそうな不安に襲われ、その日はまったく声帯を締めることなく過ぎた。
 2日目。同じ光景が広がっていたことに少し安堵した。その時は別の看護師の女性が部屋に入ってきた。彼女は白い壁を一周見回して、こちらに数秒視線をやった。そして何を話しかけることもなく去っていった。少し……話がしたいと思った。
 3日目。淡い期待を抱き、喉元に手を当てる。唾液を一度飲み込み、確かめた場所に微かな力を込める。勢いをつけて息を吐き出すと、小さな破裂が起こり、咳払いになった。3回ほどそれを繰り返し、今度は長めに吐き出す。「う・うー、う……うー」としゃがれた音が鳴る。何年も使っていない歯車のように、声帯は意図しないリズムで閉まったり開いたりした。

 この日は白衣を着た男が入ってきた。肌の色が白く、白衣と顔が壁の色と同化して、整髪料で塗り固めた髪のつやと黒目が浮いているように見えた。背が低く中肉で、人当たりの良さそうな表情をしている。今日こそは何か話そうと心に決めていた。もう一度喉に力を込めて先ほどと同じようにしてみる。「う、あ……あー、う、うう、あー」 その声にならない声を聞いて白衣の男は近づいてきた。そしてベッドの側まで来て、その顔に一番高い所から見下ろされたかと思うと、男は屈んで顔を近づけてきた。

「まだ無理をしないで下さい。あなたは1ヶ月近く声を出していなかったのですから」

 白衣の装いと口調から、彼が医者であることがすぐ分かった。理解したことを伝えなくてはと思い、頷いて見せると、その医者は「目をつぶれ」だの「右手を挙げろ」だのいくつもの指示をしてきた。「無理するな」と言ったのはいったい誰だったか。腑に落ちないものを感じながらも、言われた通りに動作をする。それを見て彼は安心した表情を浮かべただけで、何も言わず去っていった。

 その日、目を覚ましてからどれくらい時間が経ったかは分からない。しかし前の2日間と比べると意識はだいぶはっきりしてきて、真白いだけの空間と思っていた部屋に、銀色の点滴棒が立っているのが分かった。そこにぶら下げられたパックは、細い管で自分の前腕に繋がっていた。


 その次の日には、医者と共にまた別の女性が部屋に入ってきた。既にこの部屋に人が入ってくることには驚かなくなっていた。女性は小脇にファイルと記入版を抱えている。医者が問いかけてくる。
「これからいくつか質問をさせて頂きますね。まず、お名前を教えてください」
 名前を聞かれた。……瞬時に出てこない。
 名前とは、自分を指し示す言葉の一つだ。確かにそれはあるはずなのだが、ぱっと思い浮かばなかった。どこかにヒントがないかと視線を巡らせると、医者と女性の胸にネームプレートが光るのを見た。それぞれ〈岬病院 精神科医師 丸森〉〈言語聴覚士 鈴木〉と書かれている。ああ、そうだ。名前とはこんな感じのものだった。しかし、そこまで理解はできても、自分を指し示す名前が浮かばない。打ちひしがれて、ますます押し黙る。その落胆を見ると、医者は表情を変えずに言う。

「マツダさんですね。マツダ・ヒロユキさん」

 ……ああ、そうだ、そうだった。
 他人に先に言われた名前は、乾いた口の中に冷水が染み渡るかのように一瞬で脳表が吸収し深部へと浸透していった。
「あ……い」
 俺が辛うじて肯定を示すと、医師と言語聴覚士は顔を見合わせて、微かに微笑んだように見せた。

 それから日に1度か2度、言語聴覚士が訪れてくるようになった。彼女はいつも大量の紙を持って現れ、そこには様々な種類の文章や図や絵が書かれていた。鈴木はそれを読み上げたり、俺に見せたりしながら、おびただしい量の質問をしてくる。延々と計算をしたり、図形を法則に従って書き加えていったり、遠い記憶では小学生の頃に同じような試験を受けたような気がした。初めのうちは丁寧に答えていたのだが、どれもこれも簡単で似たり寄ったりですぐに飽きてしまった。その態度はすぐに気付かれ、彼女は時折「休憩しましょうか」と気遣って声をかけてくれる。

 そのうちに紙を使った質問が終わり、俺自身のことも聞かれるようになった。「どんな学校を出たか」「家族構成は」「職歴は」など。
 名前が出てこなかったことから危惧していたのだが、俺は……記憶喪失などではなかった。多少の時間はかかるものの、1つ1つの質問に間違うことなく答えることができた。名前を思い出すことに比べたら、それは遥かに容易なことであった。鈴木は俺の話を黙って聞いていた。記入板を横に置いて、目を見て、ときおり相槌を交えるなど、人に対する配慮がうかがえた。
 質問に答えていくことは、絵の上に薄紙を乗せて線をなぞるような作業。それは1日では終わらなかったが、数日後にはもう線画のようなものが完成した。感情が抜け落ちた絵は色がなくて寂しげで、まるで他人の人生のように感じられた。しかしその白黒の絵以上に自分らしい人生などは、この脳の内にも、胸の内のどこにも見当たらなかった。


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