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小説『あれもこれもそれも』4-5

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -5


 午後の時間はリハビリテーションから始まる。大部屋に移ってからは、リハビリも専用の部屋で行うようになった。オレンジ色のマットに、黄色や赤色のボールや青色のポール。それらの原色に目がチカチカして、初めて自分が原色を好いていなかったことに気づく。
 今日もまたストレッチとチューブのトレーニングから始まる。白い部屋でも散々してきたことだ。既に体に染み込んだ動作をするには余裕があって、俺は手足を動かしながらリハビリルームを見回す。そこには3人の療法士と10人ほどの患者がいた。俺以外の患者はみな還暦を越えていそうだった。ただ車椅子に座らされているだけの老人たちがいる。彼らにとっては座っていることもリハビリの1つなのだ。

 平行棒の中を歩く老人がいる。同室の将棋本の男だ。だらしなく垂れ下がった眦の皮膚は、目に力を宿そうとはせず、能面のような表情が空中を平行移動している。5メートルほどの片道を休み休み歩いたと思ったら、すぐに腰をかけて数分休む。次はその倍休む。まるで膨大な量の夏休みの宿題に取り掛かる小学生のような、どこかふてくされた空気を漂わせている。足が疲れたり、息が上がるよりずっと前に、気が参ってしまっているようだ。
 いくら反復しても上手くならないことがある。努力ではどうにもならないことがある。それなのにこの老人は……


〔断片〕

 松田は音大生のピアノを嫌う一方で、拓人のピアノは心底気に入っていたのだった。ある晩、拓人はサティの『ジムノペディ第1番』を鳴らした。

 それは拙い演奏の中にも、彼なりの解釈と表現があるものだった。松田はそこに、あのフランス印象派ピアノ曲集のCDに近しいものを感じた。それだけではなく、よく聞いていたプロの演奏にはない、音楽そのものに身を委ねるような甘えを見出していた。その信仰にも近しいような恍惚感は、サティやドビュッシーが青年の頭上に横たわっているような神秘感を与えるものだったのだ。松田ははじめその正体に興味を抱き、青年に近づいた。

 しかし実際に話してみると、驚いたことにこの青年は目の前で息をして動いていながらも、同じ世界に生きてはいないようだった。
「君、すごく良いね。音大生かい?」
「あ、いえ。僕は社会学部です」
「ほう。どんな分野を勉強してるの?」
「その……ゼミでは差別とか……ジェンダーとか……です」
 その歯切れの悪さを、松田は見落とさなかった。
(そうか。たぶんこの子は……)
「それにしても今のサティは良かった。もっと聴きたいよ」
「あ、ありがとうございます。でも僕なんて少しかじっていた程度ですから。水曜日にはちゃんとした方が演奏しに来ますので、ぜひリクエストして下さい」
(ん? この子。健斗とはだいぶ違うな)

 松田は拓人の喜ぼうともしない態度に驚いた。謙遜というより卑屈に近い受け応えだったが、松田はそれを不快に感じるどころか興味を抱いた。何か俺の知らない世界を知っているぞ、と。
 男が拓人に惹かれたのは、青年がその容貌や年齢にそぐわない絶望を抱えているように見えたからであろう。そしてその消しがたい絶望を何とかやりくりする方法さえ知っているように、直感していた。

 松田を魅了したのは、彼自身が経験のし得ない、いくつもの絶望の色だった。

 松田の周りにいる者たち。1つ1つは取るに足らない絶望たちが、その拠り所として松田を選んで、その胸に巣食った。彼の『与えたい』と思う気持ちを餌にして、1人の生身の人間の内に仄暗く溜まっていったのだった。
〈残るのは……与えたものである〉
 通知表に書かれたこの言葉自体に罪があるわけではない。松田は生来そのような男だった。他人の絶望と自分の絶望を区別するのが苦手で、人を救おうと思うほどに背負ってしまうところがあった。そして、この言葉とは妙な響きで共鳴してしまったのだ。


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