自称厨二病のひとりごと③明るい宗教観
「宗教」と聞いて身構えたり、猜疑心を持ってしまうのは、きっと誰もがそうだと思う。
だが、それは信仰を「強制」するような姿勢を多くの宗教の信者がするからだ、と思う。
しかし、「宗教」は信者を増やすゲームではないと僕は思っている。
寧ろ自分自身の「生き方の指針」として、
あるいは勧誘のない部活やサークルのような「コミュニティ」として存在するべきだと思うし、そこから平和が生まれてくると考えている。
そんな訳で、今回は「明るい宗教観」を軸に話していこうかなと思います。
1.「信仰」と「安寧」
まず僕はクリスチャンの家庭に産まれ、育ってきました。幼い頃からイエス・キリストの愛や救いについて色々と教えられました。
当時の僕には理解ができず、かなり反発していました。
そうツンケンした少年時代を過ごしながら、ふとこんな事が頭に思い浮かびました。
「結局のところ、宗教ってのは『神』という存在を以て心の安寧を保つためのツールじゃね?」と。
今思えばこれは半分正解とも言えるし、半分間違いだと思います。
僕はこうして、イエス・キリストを馬鹿にしながら何年間かを過ごしていきました……。
2.神の「愛」
それから日がたったつい最近。
昨今騒がれて久しいジェンダー(LGBTQ+や男女平等といった概念)や、障害者との向き合い方とかで過剰なまでに敏感になったこの時代を、
僕は「混沌」に思いました。
別にそのような少数派を受け入れたくないのじゃありません。
実際、僕自身は発達障害者(自閉症とADHD)だし、同じような友達も何人かいます。
でも、僕はこれらを一方的な「理解」、もっと言えば「ワガママ」のように思ったりします。
(これについては前々回の記事を見て⬇️)
僕の性格上、何でも真に受けてしまうので
「何が正しくて、何が間違いなのか」が分からず、延々と混乱し続けていました。
数学のように答えが一つや二つある訳じゃない、人の数だけ、コミュニティの数だけ答えがある。
その答えが違うゆえにソーシャルメディアから現実世界においても絶えず争いが続いています。
争いが生み出したのは「憎しみ」や「分断」だけだと言うことは火を見るより明らかです。
そこで、僕は子供の頃から親しみのあるキリスト教に回帰しようとしました。そして聖書には、こうありました。
そうか、「差別や偏見をなくして平等な社会をつくろう!」と言ってそれが実現できないのは
「みんながバラバラの答えを持っていて、それをまとめるのは不可能だからだ!」
と、そのような結論に至りました。そこで何が言いたいのかと言うと
「『キリスト教』という1つの答えのもとに、差別や偏見はなくてみんな平等なんだよ」
という僕の中での「納得できる」答えを見つけ出せました。
一応ことわっておきますが、この記事は別に「イエス・キリストを信じろ!」と言いたいがために書いたものではありません。
むしろ、「みんな違ってみんないい」を地で行くような記事だ、という認識で読んでほしいです。
3.たとえ宗教が違ったとしても
僕の専門学校には、シリアから難民申請を受けて日本に来たクラスメイトがいました。
彼はとても優しかったし、僕はその人柄が大好きでした。
彼はイスラム教を信じていました。
イスラム教と言えば、やはりどうしてもイスラム原理主義者によるテロ行為が頭をチラつかせ、マイナスなイメージを持ってしまう。
マスコミが!どーのこーの!と言いたい訳ではありませんが、やっぱりそういう印象を持ってしまうのも、仕方のないことだと思います。
でも彼はイスラム教徒ですが、殺人とは無縁な本当に本当に、優しい人です。
むしろ彼は信仰を「強制」させるという、一方的な「理解」のために家族とも引き離され、
母国を離れるという決断をした。
そこで僕は思いました。
「『宗教』が違うからと排斥するのではなくて、その違いを受け入れて皆を愛することが大切なのではないか?」
そう思うようになりました。
絵空事かもしれません。SDGsみたいに空想を語ってるだけかもしれません。
だけど昔のヨーロッパにあった「魔女狩り」や「レコンキスタ」は違いを受け入れられずに排斥していった悪い例かもしれません。
(皮肉にもこれら全てキリスト教が関連していますが、僕はこれを神様の思し召しだと決して思っていません。むしろあってはならないことだと思います。)
4.違いを認め、繋がる「愛」
結論から言えば、宗教以外にも言えることですが、
「考えの違いを理由に排斥したり、貶したりすることから生まれてくるのは『憎しみ』であって、そこから決して『愛』は生まれてこない」
と思います。
ラブアンドピース。
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