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人は思念に言語を必須とするか

言語で他者に説明可能か


 この前の哲カフェで表題のようなテーマを考えた。ファシリテーターから「ライティングを職業とする方は、自分が原稿を書くときの事を参考に考えてみて下さい」とヒントもあり。
 最近、非商業のブログでちょっとしたユーザーインタビューを原稿にする機会があり、意識しながら取材と原稿になるまでを追ってみた。
 ぶっちゃけ言語いらない。いま自分が何故取材対象にこの質問をし、答えを受けて質問を変え、一定の返答が集まるとそこで「質問終了」と判断するのか。すぐに言語化しろと言われても私は出来ない。また、この状況を淀みなく言語化出来る人がいることもわかる。私は話し言葉で当意即妙に説明をするのが下手なタイプだから。
 帰宅して、取材メモを見ながら構成を考える。言語化しない。500〜600字程度の文章なので、勘で構成して書き上げてしまう。
 出来上がってみて、何が書かれているか点検する。ある物事Aについて、始めた動機があるなあ、最初の印象と実際の体験の差から興味を深めていく展開が書かれているなあ、具体的にどこが興味のポイントなのかも紹介されているな。固有の体験から他人にも共有可能な面白さを引き出しているな、と、思う。
 ああ、こういう記事を作りたくて、あの質問を考えて、相手がよく喋る内容を引き出し、要点をまとめられたのか。ふーん。
 まあこれは、もしかしたら、哲カフェの中でファシリテーターから解説のあった、情報処理の領域なのかもしれない。AIに可能なインテリジェンスの領域に留まるのかも。人間にしか出来ない言語による思念、思考とは、では、何がそこに類するものなのだろう。


ディレクションに言語化は必要(なはず)

 一人で取材して仕上げるときは、大体上記のようにやってしまう。一方でチームのデスクになると言語化は重要。と、思いたいが不得手な人は不得手だ。「記者としての勘でやる」が熟練技のように語る人もいる。つい説得されてしまいそうになるが、その人が口頭で解説するのが苦手なだけである。私のように。
 ただ、最終的に部下が書くための何かを掴んで、そしてまともな原稿が仕上がれば御の字だ。言語化は重要な一方、何が人の心を動かすかはわからない。詳細な説明よりも、デスクの見下した顔つきや言葉で闘志を燃やすこともあるでしょう。それがいい原稿に結びつくこともあれば、結びつかないこともある。理想を言えば、口頭で言語化して解説して受け止めた部下が理解でき、なんらか情念の燃えるきっかけもなんらかで手に入れて、仕事を上げられたら。私自身はひたすらに一兵卒の最下層なので人を指導することはなかったし、今後もないと思う。


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