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何に我慢してるのか割とわからない

 このnoteは私がストレスを感じた時に更新しているようだ。
 ストレスとは、「嫌だな、と思うけど、我慢しなくては」と考えてしまう状態だと思う。すると結構気付きづらい。我慢が発動するということは、我慢するメリットが何かある。だから我慢を選んでいる。
 我慢の理由の多くは、「相手に悪いから」「相手を傷付けるかもしれないから」。
 しかしこれが本当に奏功しているのかは、わかりづらい。我慢しなくても傷つかないかもしれないし、そもそも相手が傷付いても言ったほうが双方にとって良い結果になるかも知れない。この「双方にとって良い結果になるかもしれない」と思うから、たぶん、書こうとする。ダイレクトに相手に届くことはないし。(という甘えが……)
 ただ、本当にそうかはわからない。
 私は善悪の番人ではないし、スピノザをちょっと齧ったら、万人に当てはまる善悪の基準があるとはいえない。
 いえないが。
 言えないけど、私達は一定の決まりで運用されている社会の中で生きている。社会自体が一定の属性を抑圧するような問題を孕んでいる場合、その抑圧を強化する行動や言動には否を言ってもいいのではないか。
 しかし、「これ正当かな?」とは思う。もっと倫理学勉強したい。

 とはいえ、逆のようだが、ストレスの理由が他人との関係で生じるなら、ストレスの軽減もまた他人とのコミュニケーションを円滑に行う技術によって解消されるものなのかもね。

 しかしスピノザの善悪の話を考えてから、アダム・スミスの「公平な観察者」の話を思い出すと、「公平な観察者」の概念、楽……! スピノザの善悪の話は、レヴィナス級の「得体の知れない他者(いつ加害して来るかもわからない危険がある)」まで考慮するとどうすることも出来ないね。スミスの場合は、一定の社会の中で「一般的な人々がこれを見たらどう思うか」というゆるい基準なので個人で判断しやすい。個人で判断しやすいが、他人を含めて公平になるのかを厳密に考えるにはあまり向かないのかもしれない。ちょっとわからないけど。


 

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