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恋愛事変 その6 水族

    第五篇 水族

「むしゃむしゃ」
 君の食欲は半端ない。まるで地球を今にも食べ尽くすくらいだ。
「くしゃくしゃ」
 君の咀嚼力ときたら、岩でも水母でもあっという間に片付けてしまう。
 隣りのザトウクジラが驚いていたよ。
「百年近く生きてきたが、こんな人間は見たことがない」
 君は、海と陸の境目を壊し、地平線と水平線をぐちゃぐちゃにした。もう元通りにはならないように。

 それから、この惑星は、そのことを小耳に挟んだ。
 惑星は、深く恥じた。
 そして、とうとう前代未聞の発酵を始めることにしたんだ。
 乳酸菌でお腹ぐるぐる、一丁前のグルメになった気分で、太陽と月をひとつながりにして、誰もいない素寒貧の空に放り投げた。
 君は、それを見て、ひどく心が痛むと、腐敗臭をそこいらじゅうに撒き散らかした。
 はた迷惑なと、みんなが君の陰口を叩いた。でも、僕は、箒一つ、蠅一匹、叩かなかった。
 それが気に入らないのか、君はさめざめと泣いた。
 隣りでホオジロザメも青い涙を海に流した。それからは、海は、青い後悔で満腹になった。
 夢から醒めた。
 夢は、いつも中途半端な幕切れで、見る者の期待を裏切る。



 あれから、君は、どうしている。
 コンビニ帰りに、余った釣り銭で北斗七星でも買ったのだろうか。腐り始めた林檎の身代りにして。
 僕は、ボロボロのスタジャンを着て、窮状を救いに出掛けた。
 何の為なんて、知らないまま、転がる岩のように、ひとりロックしながら。
 連絡が途絶えて半年、まだ、君の横顔が部屋の鏡に写っている。
 何の理由も要らないから、きっとそうなんだろう。

 僕は、暴君じゃなかっただろう。
 紳士でもなければ、金持ちでもない。
 出来のいい学生でもない。
 とびきりの貧乏でもないし、誰かに親切でもなかった。
 それでも、ちゃんと君に恋をして、君を愛した。僕の錯覚、思い込みでなければ。
 独り善がりは得意だったが、独り遊びは好きじゃなかった。
 僕は、優しかったはず。
 そう言えるのは、たぶん、僕が優しさの正体に気づいていたからだ。

 君を失って分かったこと。
 君がかけがえのないひとだったこと。
 君がうそいつわりなく本物の君だったこと。
 僕が僕の紛い物で、なんでもかんでも都合よくごまかして、やりくりしてたこと。
 結局、僕は臆病だったこと。
 君の愛と向き合うことに。
 君と人生をわかち合うことに。
 君はそれを嗅ぎ付けて、僕をたしなめようとした。
 僕は君を遠ざけた。僕という腐り始めた罠から。

 僕は僕自身に閉じ込められて、ずっと苦しんでいることにも気づかずにいただけなのだ。



 今日も星は息苦しそうにしている。
 君は、どでかい水族館にでもするっと潜り込んだのか、ぷくぷくと泡も立てずにいる。
 僕は、偽物にふさわしいプラネタリウムを探し出したよ。
 赤や青、白、黄色、ネオンサインのようなにぎやかな夜の街に、独り、あてもなく、通り過ぎる人たちに紙切れを渡し、客を引きずり、店に案内する。
 まるで迷路か迷宮のような毎日。
 僕はどこにいるんだろう。いったいどこに向かっているんだろう。
 海図と羅針盤の無い航海は、危険過ぎる。
 いつも君が口を酸っぱくして言っていた。
 不用心な僕を心配してたのだろう。自分自身に不用心過ぎると。

 くしゃくしゃになったチラシをひろげて、君の好きな星座を探してみたが、星一つない淋しい空だった。
 今年も間もなく終る。
 うら悲しく腐ったような夜の空に、オリオンだけが異様に輝いて見えた。

 僕のこま切れな話は、ここまでとしよう。
 次に何か話すことがあるとしたら、きっと、あのシンデレラと再会を果たしたときだと思う。
 それまでは、少しぼんやりとして生きてみようと思う。

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