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図書室にひとり

うちの長女はおもしろい。
こちらにはない発想だったり、ときに言い間違いだったりが多くてよく笑わせてもらっている。家族の中でも特殊というか、独特のセンスを持っているとは思っていた。そういう点も含めて私は長女が大好きだ。

さて、そんな長女は大人数や人混みがどうも苦手らしい。
自分が目的をもって楽しめる場所(例えばキッズパークやゲーセンなど)は全く問題ないようだ。だが仕方なく大人に連れてこられた場所(大小に関わらずスーパー、イオンモールなど)は苦痛らしい。体力的に疲れることもあるし、明らかに表情が曇っていく。おうち帰りたい、ゲームやりたいと呟きながら下を向いて歩いている。

まあ考えてみれば大人だってそうかと腑に落ちる。
もし私が「毎週オレの野球をみにきてくれ」と夫から言われたら面倒くさいし暑いし日焼けするし疲れるし行きたくない。(ちなみに夫は野球などやっていません!例え話です)あまりに暇なときに1回だけなら行ってもいいかもしれない。

そうなると長女が学校ではどうしているのかと気になった。
私:休み時間はどうしてるの?
長女:図書室にいって本よんでるよ。友達と遊ぶこともあるけど。

おう!そんな方法があったか!

自分が低学年のときは昼休みといば鬼ごっこや縄跳びばかりしていた記憶しかない。高学年のときはトランプばかりしていた(雪国ゆえ冬季のみトランプの持ち込みが担任により許可されていた)。いずれにしてもひとりで過ごすことはほぼなく、必ず友人と過ごしていた。ひとりでいる選択肢がなかった。ひとりでいるなんて友達いないみたいで恥ずかしい…という発想もどこかにあったと思う。

長女の性格なのか時代の違いなのか、昼休みにひとり図書室で過ごすという選択肢があることに驚いた。驚きと同時に長女に感心し、そして羨ましく思った。長女は流されることなく自分の意思でひとりで過ごしている。「ひとり=独り」という認識の私にはできなかったことだ。以前別の記事で書いたが、小学生高学年の私は毎日空気を読んで自分が仲間外れにされないことに必死だったものだ。

一方長女にとって「ひとり」は「ひとり」でしかない。そこに深い意味はなく、ひとりでいたいからひとりでいるのだろう。正直、長女がひとりですごしていることに不安を覚えることもある。友達がいないのか?避けられていないか?
結局アラフォーになった今でも長女を通してあの頃の自分の不安を打ち消そうとしている気がする。あのときについたセメントの穴(漫画「ミステリと言う勿れ」での表現を拝借)はきっと一生埋まらないのだろう。

自分が経験した痛みを子どもに味わってほしくないというのは半分正しいが半分は言い訳だ。結局は子どもを通して自分の穴を埋めようとしてるのだ。長女と私とは別人格だと何かにつけて自分に言い聞かせるのだが、少し気を緩めると同一視しそうになっている。危ない危ない。

長女よ、どうかこのままのびのびと人生を過ごしてほしい。だけどたまにでいいからお茶に付き合ってくれると母は嬉しい。

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