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誰かの作ったカレーと誰かの作った味噌汁


 は美味しい。

 上野公園、噴水近くに腰掛けてカレーとキュウリを挟んだコッペパンをぱくつく。
 上野の産婦人科に行き、待合室で5分ほど待った後、診察室を自己記録新の15秒で退出し、10分ほど待って処方箋を出してもらい、ドラッグストアに寄ってから上野公園に来た。薄いブルーのトートバッグの中には、家から上野へ歩いていく途中に買ったパンが入っている。分厚い『ジーヴスと封建精神』とのトートバッグ内における陣地争いにより追い詰められたパン達は、ちょっとだけいびつな面相に変わっていた。
 カレーと厚めに輪切りされたキュウリとコッペパンの、連理の枝というか連々理の枝というか連理の枝々が如き相性の良さに、心のなかで「おいしい」を乱発しあっという間に食べ終わってしまった。
 カレーは甘口と中辛の中間といった味わいで、「誰かが作った」カレーの味だった。それが無性に美味しかった。
 一緒に買ったクリームチーズとレモン餡を挟んだコッペパンも美味しかったが、カレーのように「誰かが作ったレモン餡だなぁ」という滋味は無い。そもそもレモン餡を食べたのは人生で2度目くらいだ。

 カレーと味噌汁は自分で作ると、なんだか妙に薄っぺらな味がする。カレールーが足りないのでも出汁が出ていないのでもなく、野菜を切って煮て味付けしてお皿もしくはお椀に盛るという過程の間で自分が予想した味を、なにひとつ裏切らないからそう思うんじゃないかと思う。

 お店で食べるカレーは違う。複雑構造の味わいをしている。カレーライスでもカレーパンでもそれを味わうことができる。手間をかけた味だ。塩加減といった味付けや、好みの味かどうかを判断する舌の感覚とは別に、それは「台所に立ってカレーを作っていた母」を想起させる。こんなクサい言い方しか思い付かなくて忸怩たる思いだけれど、それは心の味覚みたいなものを刺激して、私は誰か、パン屋さんかコックさんかアルバイトか、知らない誰かが作ってくれたカレーを玩味する。

 11時を少し過ぎた上野はぽかぽかと良い陽気で、噴水の吹き上がる音や走り回る子供の軽い足音、恋人達の穏やかな喋り声は考え事をするのにちょうどいいBGMとなって、耳を通り抜けていく。
 もう少ししたら立ち上がって職場に向かおうと思いながら、私は足をうんと伸ばしてまぶたを閉じる。顔を空に向けると、オレンジ色の暗闇がいっぱいに広がって、遠い太陽の熱が私のまぶたにまで届いていることを知る。
 
 

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