🍋🍯本編　第一部第六章　熱い紅茶はいらない（1）

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「ミエル、ボクと話せる？　長い話」
「あー、待って、ドアは開けないで。ドアの前に本の山がある」
「わかった。部屋を片付けている？　ボクはリビングにいる。話ができるとき、ミエルは出て来てほしい」 

　僕は本棚の整理の手を止めて、本の塔が崩れないように小分けにする。ドアの開閉を阻害する本と椅子を退けると、リビングへと向かった。ソファーに座っているものと思ったレモーノは、部屋を漫然と歩いていた。

「早いね。もういいの？」
「急ぎの用かと…」
「急いでは、いないけど……ミエルの作業は？」
「僕も本棚を整理してただけ。本が増えすぎて入らないから、読まない本は大学に寄付する」
「いいね。じゃあ、キミはきっと疲れている。休憩も必要だ」 

　とりあえず僕は、埃まみれの手と汗の滲む顔を洗うことにした。洗面所に向かう途中、紅茶でいいかと聞かれたので、了承した。冷たいものが飲みたい気分だが、それは自分で用意すればいいだろう。
　レモーノの長い話とは、なんだろうか。まさか引っ越すという話だろうか。元より勤勉だが、ベッドでの一件があってから、彼は言語習得に根を詰めていた。何か新しいことをしようとしているのだろう。
　リビングに戻り、ソファーの背もたれ越しに彼の背中を見るが、勿論、何も語ってはくれない。甘く華やかな香りだけが、一番に僕のところへ届く。自分で淹れるのとは、何が違うというのだろうか。茶葉も、使うポットも同じで、淹れ方も彼を真似て、注ぐ水ですら同じだというのに。 

「お待たせ」
「ありがとう。相変わらず良い香りだ」
「それは何より」 

　ティーカップの他にも、炭酸水の入ったグラスが僕の前に並べられる。掃除をしていた僕を気遣ってだろう。有り難く炭酸水から飲むと、なんだかんだ重労働をしていた骨身に滲みた。

「それで、話って？」 

　お茶を飲むわけでも、お菓子をつまむわけでもなく、レモーノは黙ったまま、膝の上で手を揉んでいた。僕が沈黙を破ると、彼は僕をじっと見詰め返した。炭酸水の泡の弾ける音が、そんなもの聴こえるはずがないのに、僕の耳を擽る。

「キミは、まだ、ボクを好き？　ボクとキスをしたい？」

  

　思わず噎せてしまった。飲み物を持っていなくてよかった。

 「あの……えっと……わからない」

 　あの日と同じ返し方をする。同じ理由で。それでも“わからない”の舌触りは全く違って、妙な断定の響きを含んでいた。レモーノも訝しげな表情をする。

「僕は……あの日から、諦める努力をしてきた……から……」

　これは、何のための嘘だろう。
　僕は日を追うごとにレモーノのことが好きになっていく。ベッドにいるのがバレた日から、彼はわかりやすく学習時間を増やした。何をしようとしているのかわからなくて、幾晩、枕を濡らして過ごしたことか。でも、その目的を、僕はいつまでも聞けなかった。 

「諦める？　何を？　あの日のキミの“わからない”と、声も違う……」
「君を嫌おうとしてるわけじゃない。君とはこれからも一緒にいたい。でも、いや、だからかな、君に迷惑かけないように、君に恋をするのをやめようというか……」 

　レモーノの眉間に皺が寄り、ミエルの難しい話だと返される。一緒に住みたいから、余計な感情をなくそうとしていることは、そんなに難しい話だろうか。

「今までのミエルの話を聞いて、ボクの考えを話す。違うなら、違うと答えてほしい」
「わかった」

「レモーノとキスしたいと思うのはダメだ。いけないことだ。レモーノは迷惑だと思う。我慢しよう。恋をするのをやめる。キスしたいと思うのをやめる。そしたらレモーノは離れない。レモーノはスフィリットを出て行かない。ミエルは、そう考えている？」
「心まで読めるようになったの？」
「ミエルのだけね」 

　さすがに冗談だろうが、冗談だと言って笑うことはなかった。レモーノは両手を開いて見詰めた後、汗でもかいていたのか、ズボンで拭った。

「あの、キミの顔に、ふれていい？」

　それで手を拭いたのか。レモーノはいつも僕にふれる前に手を拭く。職業病だろうか。了承すると、レモーノの手が頬に伸びてくる。僕は無意識に体を寄せようとしている自分に気付いて、少し後退った。彼は眉間に皺を寄せたが、僕の前髪を耳にかけた後、頬骨を親指でなぞった。

「泣くのも、やめた？　こんなにかたくなって……泣いたら、ボクが迷惑に思うだろうから？」
「それは……ごめん……君の気持ち、また、僕が決めたね」 

　レモーノは僕の顔に両手を添える。軽くではあるが、顔を固定されて、視線を泳がしていることも自覚する。強張った頬を揉みほぐすように、彼の親指が動く。あたたかい手だ。不謹慎だが、気持ちがいい。

「ボクはわからないから聞く。キミは話したいだったら答えてほしい。話せないなら、話せないと言ってほしい」
「う、うん…」
「ミエルには、ボクがどう見えてるの？　ボクがキミをどう思ってるように見える？　話せるなら、本当のことを言ってほしい」
「レモーノが……僕を……？」 

　顔を押さえられていては、僕が答えづらいことを察して、レモーノの手はそっと離れていった。僕の頬は彼の手を追って、いつまでもソワついていた。
　話したいなら答えてほしいと言ったように、僕が俯いて、口元を押さえても、彼は何も咎めなかった。考えるから待ってほしいと言うと、彼は了承して、視線をティーカップに落とした。 

「部屋を貸す人とか、言葉を教える人とか、一緒に住んでる人とか？」
「それはミエルがレモーノにすることだね。こう、レモーノがミエルに感じることは？」
「感じること？　印象ってことかな。僕に生活の恩があるから、何を言われても、嫌でも我慢してるだけで……本当は僕を、厄介で面倒な人だと……ごめん……怖い……レモーノにどう思われてるか……わからなくて……怖い……」
「……そう、なんだ。否定はしないよ。それはキミの考えで、ボクはわからないから聞いた」

　レモーノは深くため息をつくと、両手で顔を覆った。怒っているのだろうか。当たり前だ。真偽はともかく、彼はずっと僕が大切だと言い続けてきた。
　これから何を言われるのだろう。レモーノはぽつりと僕の知らない言葉で何かを言った。それは、僕にネックレスを渡した日の声と同じ、深い悲しみを帯びた響きだった。 

「レモーノは、この家を出て行きたい。ミエルから離れたい。ミエルはすぐ泣く。ミエルはすぐパニックになる。子供っぽくて面倒だ。でも頭では難しいことを考えて厄介だ。レモーノはミエルが嫌いだ。早く言葉を覚えて、他の場所で、他の人と生きたい。ミエルは、そう考えている？」

　酷い考えだ。そう考えているのは僕なのに、惨めなくらい涙が零れ落ちる。レモーノは黙って、僕に手を差し出してきた。両手で握り締めると、頭を横に振る。

「ミエルは大切な人だ、何をされても嫌ではない、ごめんと思わないでほしい、と言っても、ミエルには伝わらない。もしかして、大切の意味をボクは間違えている？」
「違う……合ってる、合ってるけど……」
「ミエルはレモーノに部屋を貸す人だから、言葉を教える人だから、レモーノはミエルが大切だ、嫌なことがあっても我慢しているという話に聞こえる？」
「……ごめん。そんな風には、言ってないね……君を引き留めて、部屋を貸してるのは僕だった。でも、そう、その通りだ。僕はそう思ってる」
「謝らないでほしい。部屋の貸し借りは、話したいことではない。それに、ボクに伝える能力がないから、起きている悲しみだ。やっぱりボクは、ミエルと話す必要がある。その話をして、これからも一緒にいたいか、考える必要もあるかもしれない。下手で、長いけど、聞いてくれる？」
「勿論だよ」 

　部屋の貸し借りは、話したいことではないのか。よかった。一先ず出て行かないことがわかって、ずっと抱えていた緊張が薄まる。しかし、これからも一緒にいたいのかは、もう一度お互い考えることにはなってしまった。

「ボクは、とても頑張って、言葉を覚えた。ミエルとベッドで話した日から、特に頑張った。ミエルも、そう思う？」
「それは、思う。すごい。本も読んで、接客の仕事もするようになって……」
「仕事は、どうでもいいこと。キミは、なぜボクが、もっと頑張って言葉を覚えて、今は話があると言ったと思う？　違う、ボクが頑張ってミエルの言葉を覚える理由を、キミはどう考えているか聞きたい」 

　仕事はどうでもよかったのか。
　確かにレモーノは、興奮気味になるほど内装を気に入ったレストランでの仕事を辞退して、僕の大学の近くにある、知り合いの経営するカフェで働いている。おかげで僕にはそのカフェに特等席ができ、研究に詰まったときの気分転換に、彼の特別メニューは最高だった。
　もしかして、出会ってから今までのレモーノの努力は、僕のためなのだろうか。僕ともっと一緒にいたいから、彼は今、ここにいるのだろうか。 

「今まで、新しい仕事をするためだと思った。レモーノは、料理が好きだし、上手い。働くのも好きだ。作るものの種類が少ないカフェではなく、前に行った、色んなものを作るレストランで働きたい。この窮屈な家からも、厄介な僕からも離れられる。だから、言葉を頑張って覚えてる。でも、仕事はどうでもいいの？」
「うん。他の仕事がしたいなら、もう言葉を話せる国に住んで働けばいい。初めてキミに、言葉を教えてほしいと言った、その日のボクの言葉を思い出してほしい。ボクは、キミに、何を言った？」 

　あれからもう二年か。レモーノは随分と言葉が上達した。確か、ヨセフの通訳を介さずに話をできるようになりたいと、彼は言った。その後、僕以外の他の誰かから習っている気配すらなかった。ジルバノやコスミですら、レモーノがスフィリットの言葉で話せることを知らない。

「ミエルの言葉がわかりたい……僕と話すため？」 

　レモーノは不安そうな表情を解いて、満面の笑みを浮かべた。屈託のない笑顔は、初めて見た。

「そうだよ。その通り。簡単だね」
「え、いや、えっ？」

　あの日、確かにレモーノがはっきりと覚えた一文は、“ミエルの言葉がわかりたい”だった。国名も教えたのに、レモーノは一度として、スフィリットの言葉を覚えたい、スフィリットにいたいとは表現しなかった。

「ボクの心は、何も難しくない。ミエルといっぱい話したいから、キミの言葉をたくさん覚えている。ミエルと話すには、ミエルの言葉を覚える必要がある。仕事は、他の言葉でもできる」
「そんな……だって……」
「でも、キミは話すのが好きではない人だった。ボクにとって、相手が嫌がることを続けるのは、重い罪だ。ずっと、してはならないことをしてしまったと思った。ボクは、ネックレスを渡した夜、本当は、しっかりミエルの言葉で謝って、キミの元を去るつもりだった」
「そう、だったね……」

「今でも、その気持ちは抱えている。レモーノはミエルが嫌い。ミエルがそう考えるのは、ボクのその罪を感じる気持ちかと思う」 

　レモーノは無実の罪悪感を抱いている。僕らのすれ違いは、二度目に会ったあの日からずっと解消されていない。原因は、僕の対人恐怖症と、素直に表現することもできず、諦めをつけることもできない恋愛感情なのに。

「その罪は、悪い気持ちの中で死ぬことと同じ。このネックレスをキミに渡したのは、ミエルはいつでもボクの死を望むといいの意味」
「そ、え……？」
「ボクの国の話をしないと、ネックレスの意味はわからないね。その話をする前に、レモーノとミエルが、ボクにはどう見えていたの話をする」
「わかった」

　今、レモーノはとんでもないことを言わなかったか。

「今のボクは、キミといるほど、もっと長くいたいと思う。キミと一緒にいるのが楽しい。キミの姿を見たり、キミの声を聞いたりする日が、幸せだ。だから、キミの家の部屋を借りている。仕事もキミと会いやすいから、大学の近くのカフェで働いている。あのカフェなら、キミのために料理もコーヒーも作れる。一秒でも長く、キミと過ごしたい」
「そんなに？　その、君は、僕といると、幸せなの？」
「“幸せ”は、ボクにとって、ミエルといることだ。ミエルは、初めて話したとき、“楽しい”の言葉を教えてくれた。今は、違うときにも使うけど、ボクはそのとき、ミエルと話すと感じる気持ちは、“楽しい”と覚えた。ボクの頭の“嬉しい”や“楽しい”の言葉は、キミと初めて話した、あの時間の中にある。“幸せ”の言葉も、ボクは、約束がない日にキミと会えたことで覚えた。ボクがどれほどミエルを強く思っているか、キミに伝わっている？」
「えっと……よく、話してくれるけど、受け取れていない……」
「ボクもそう思う」

  

「会うたびに、キミの言葉が、気持ちがわからないのが、悲しかった。ボクの言葉も、キミに届かない。でも、キミが楽しいとボクも楽しい、キミが悲しいとボクも悲しいと思える人がいることは、嬉しかった。ミエルが傍にいることが、生きていることが、嬉しい。ボクはこの気持ちを、どう言ったら、いいだろう。恋愛なのかもしれない、でも、ボクは恋愛を知らない」

　レモーノが恋愛を知らない？

　そんなことを言ったら、世界には恋愛が存在しないようなものではないのか。しかし、“何を言ってるんだ、君は”と疑問を訴える声と、“ああ、それで”と納得する声の両方が、脳裏には浮かぶ。 

「言葉を覚えるだけでは、ボクはミエルと話せない。この国には色んなものがある。キミもたくさんのことを知っている。だから、この国の色んな食べ物を食べた。景色も見て回ったし、音楽も聞いた。キミが一番好きな本は、まだ大変だけど、絵がたくさんの本と料理の本は、いっぱい読んだ」

　そう語りながら、レモーノは愛しそうにティーカップのソーサーを撫でた。彼の手は、母と同様に、“よく働く人の手”で、花柄の白磁の上で目を引いた。

「ミエルの言葉が、何から来てるのか。どんな味がするとか、どんな匂いがするとか、いっぱい勉強した。なんて言ったら、伝わるだろう。この国に生まれて、この国にずっと生きている人が、どう感じるか、どう考えるかがわからないから、ボクはキミの言葉が、言葉を覚えてもわからないと思った。そして、それは、キミも同じと思う。ボクがどう生まれて、どう生きて、どう感じて、どう考える。きっとわからない。スフィリットの他の人を比べても、ボクを知ることはできない。ボクとキミは、人であることしか同じではない」

　レモーノは、この国に生まれ育ったわけではない。だから、この国にある物事にどう感じるかがわからない。言葉を知っても、聞き取れても、僕の感じることに彼は辿り着けない。それで、感じることを話せと言ったのか。そしたら僕はさっき、かなり酷いことを言った。

「でも、そうしてキミを知ろうとすると、キミの苦しみも伝わってきた。今も、すごく苦しんでるね。謝らないで、ミエル、キミはもう十分苦しい。キミが安心してほしいから、ボクは頑張ってる。キミが悲しむためじゃない」

 

「レモーノ、」
「ん？」
「ハグ、してほし……っ、苦し……」
「わかった」

 

「大丈夫だよ、ミエル。ミエルは悪くない。一人でとても頑張っていた。でも、ボクのことは、ボクが話さないと、ミエルはわからない。ミエルが苦しんできたのは、悲しいけど、怒ってはいない。話すから、聞いてほしい。キミは、ミエルが悪い、ダメなことをしたの気持ちから、少し離れてほしい。ゆっくりで大丈夫。落ち着くまで、ボクの話をする」

 

「ベッドで話した日、キミが過去と苦しみを話してくれるまで、何が苦しいのかは、わからなかった。でも、ボクは言葉よりも、いっぱいわかっていた。ミエルが心の言葉と違う言葉を話すの、声でわかる。その声は、泣いているミエルに似ている。キミの心は、出会った日からずっと泣いている。それがボクのせいなのか、いつも考えている」

　ぐっと口に力が入る。 

「レモーノとキスをしたいと思うミエルのこと、ボクではなくキミが嫌いだ、とボクは言った。ごめん、少し、厳しい言い方だった」
「いや……レモーノの言う通りだったよ……」
「ミエルは、そうするしかなかった。過去のミエルから、ボクの気持ちを考えるしかなかった。それも、苦しかった過去から。それは、キミだけのせいではない。ボクは、ボクの過去の話も、ボクの今の考えも、キミに説明できる力がなかった。キミがボクに直接聞いて、ボクの気持ちがわからないと言って、ボクを知るための方法がなかった。これからはボクに聞いてほしいと思うけど、ごめんと思ってほしくない。ミエルは、何も悪くない。キミを嫌だなんて、ボクは少しも思っていない」

　思わず謝りそうになる口を塞ぐと、レモーノは緩く微笑んだ。謝りたいなら謝ってもいい、彼は僕が苦しむことを求めてないと、再度言われる。どうして彼は、そんな風に物を考えられるのだろう。

「キミは、ボクのことがわからない。その気持ちをずっと抱えてきたと思う。そして、その気持ちは、正しい。ボクは自分のことを何も説明していない。ボクに話す力がなかった。キミに知る力、わかる力がなかったせいではない。キミは、まず、レモーノがわからない、わからない人が傍にいるのは怖いと思うことは、正しい気持ちだと受け止めてほしい。蓋を開けてない箱の中身を当てられる人はいない。それとも、ミエルにはできる？」
「できない。僕は、レモーノがわからない。でも、生き方の違う国から来た人だから、スフィリットの人達の生き方から、レモーノはこういう人だ、レモーノはこう考えていると、予想しても、本当のレモーノとは全然違う。合ってる？」
「合ってる」

 

「落ち着いた？」
「落ち着いた、ありがとう」

 

「この紅茶が、わかりやすいと思う。例えば、ボクが今みたいに、ミエルに飲んでほしいと、熱い紅茶を用意したとする。でも、キミは、働いた後だから、冷たい炭酸水の方が嬉しい。ボクは喜んでほしい、キミは冷たい炭酸水がほしい、二人の違う気持ちの例えだと思ってほしい」
「わかった。よくわかる」
「キミは、ボクの喜んでほしい気持ちがわかるから、いらない、飲みたくないと言えない。飲むけど、苦しい。ボクは、苦しそうなキミに、紅茶は嫌いかと聞く。でも、キミは、嫌いではない、折角の紅茶を喜べなくてごめん、と言う。ボクは、嬉しくない紅茶を出してごめん、と言う。これが、ベッドで話した頃のボクらの会話」
「確かに、そんなやりとりだった」
「そう、でも、この会話も二人共、言葉がわかるから、できる話。言葉がわかるけど、気持ちはわからない二人……気持ちは伝えられない二人？」 

　まさかこの話をするために、紅茶を淹れたのだろうか。冷たい炭酸水まで並べて。 

「ボクらには、最初、言葉すらなかった。ミエルは、紅茶で我慢するか、紅茶を床に流して、いらないと伝えるしかない。キミの苦しそうな顔や、飲めなくなった紅茶を見て、ボクは言葉や行動を間違えたと思う。でも、キミに何がほしいのかも聞けない。言葉がわからない、気持ちもわからない。それが、もっと前のボクらの伝え方だった。ボクから見えた、ボクらの姿」

「今のボクの願いは、熱い紅茶はいらない、冷たい炭酸水の方がいいと、キミの思っていることをボクに言えること。ごめんと言わないで、とボクが言うのは、何がほしいのか、何をしたいのかを知りたいから。飲み物を間違えているのは、ボクだ。冷たい炭酸水があれば、ボクらは幸せになる。飲み物が変わればいい。熱い紅茶で我慢して、二人でごめんの気持ちになるのも、どっちかが悪いと思うのも、ボクは違うと思う。喜ばれたいと思うことも、冷たい炭酸水がほしいと思うことも、何も悪くない。これがボクの気持ち。下手だね。長すぎる」
「いや、上手だよ。レモーノが僕とのやりとりをどう見てたか、とてもよくわかる。僕から喜べなくてごめんじゃなくて、それはいらないとか、これがほしいとかを答えてほしいんだね」
「そう。でも、ミエルにはミエルの願いや話し方がある。”どういう話し方をしようか”は、二人で決めたい。ボクが飲み物を用意するのをやめてほしい、自分で用意したい、つまり、放っておいてほしいと、言ってもいい」

　レモーノの言う通りだ。
　僕に喜んでほしいと用意された紅茶を、振り払って床に落とす自分の姿が、瞼の裏に浮かぶようだった。それはいらないと、違うものがほしいと、ただそれだけの言葉を何度飲み込んできただろう。それで、嬉しいと思えなくてごめんと言って、誰も幸せにならない状況を作り出してきた。 

「ボクがしたい話、続けてもいい？　聞きたい？」
「うん、続けて。聞きたい」
「言葉もだけど、それよりも、説明しないといけない大きな違いがある。ボクは、恋愛を、普通の生き方だと…えーっと…人間みんながする生き方だと、思っていない。ボクは、ずっと遠くの、全然生き方が違う国から来た。キミとボクは、生き方が違うから、考え方も全然違う。国のこと、ボクの過去の話をずっと説明していない。今もできると、わからない」
「恋愛はみんながする生き方じゃない？　それは……僕もそうだったけど……」

「例えば、この赤い水が、飲める水だと思うか、汚い水だと思うか、みたいな話。飲んだことがないと、きっと汚くてくさい水に見える。紅茶が飲み物だと、知るか知らないかの話。あと、仕事の後に、飲み物をもらうのは嬉しい、でも熱い飲み物はいらない。紅茶が嬉しいか嬉しくないかの話。難しいのは、この話。紅茶を作ることは、喜んでほしいからすることだけど、紅茶が飲み物だと知っている、紅茶を飲みたい気持ちがあるから、渡された人は喜ぶことができる。でも、そうでない人はどうする？　こんな汚くてくさい水をいらないと、今は熱い飲み物をいらないと、喜んでほしい人の前で、本当に言える？」

　紅茶が飲める水に見えるか、汚い水に見えるかは、確かに個人の選択の問題ではない。レモーノの言う通り、紅茶は飲める水であると知るかどうかだ。ただの赤い、独特な匂いの水を初めて見たら、やはり抵抗があるだろう。僕もコーヒーに対しては抵抗があった。仕事の後の飲み物の話と併せて、彼が伝えようとしていることはわかる気がした。
　好意や恋愛感情、それそのものは、良いもののように考えるのが一般的だ。しかし、好意がお互いにあるから、その好意は喜ばれる。好意の程度は適切か、相手から求められているものか、それらが両者で食い違うと、その好意は、汗だくで飲む熱い紅茶と同じになる。相手が向けているのは好意なだけに、いらない、やめてほしいとは言いづらい。
　しかし、そもそもこれも、恋愛が好意の一種だとわかっていることが前提だ。恋愛が何かを知らなかったら、世界はどう見えるものだろうか。人の好意は、どう感じるものだろうか。僕は、レモーノの人生に恋愛が存在しない可能性なんて、微塵も考えたことがない。 

　綺麗な器に入れられた、香りのいい紅茶が、今はなんだか肩身が狭そうだった。

「国や恋愛の話は、難しい。もっと簡単な話にする。ボクは、悲しくても泣かない。涙が凍って、目を開けられなくなる国に生まれたから。痛くて悲しくても、叫ぶだけにして、泣いてはならないと教わる。でも、痛いことや悲しい気持ちはある。ミエルは、涙や瞼が凍る寒さは、わかる？」
「わからない」
「レモーノが悲しいとき、泣かないで、悲しいとも言わなかったら、ミエルに伝わる？　ミエルには今のボク、どう思っているかわかる？」

　レモーノは、見たことのない表情をした。きっと彼の“悲しい”だ。しかし、今は伝わらないことと、僕が彼の気持ちを誤解していることへの苦しみだろうと、彼が質問する前に話したから、そう思い込んでいるに過ぎない。悲しくても泣かない話がなければ、怒っていたり、痛みを抱えていたりする表情にも見える。

「悲しくてもレモーノは泣かない、僕らの考えが違っていて悲しいって、言われたから、悲しいのかなって思う。でも言われないと、お腹が痛いや、ミエルが嫌いにも見える」
「そう。難しい。ボクには、キミの涙と恋愛は似ている」 

　ただ聞いただけでは、美しい詩のようだと思った。 

　それにしても、レモーノは例え話が上手い。僕は、恋愛は誰もが知るもので、涙は悲しいときに流すものだと思って生きてきた。勿論、恋愛をせずに生きる人も、悲しくても泣かない人もいるが、するかしないかの選択の上にあるものだ。知識として存在するかどうかの話ではなかった。

「確かに、難しいな。でも、レモーノの話は、よくわかるよ。レモーノは、紅茶が飲めると知らないことや、涙が流れることと悲しいことは同じではないことのように、恋愛が何をして、どう感じるものだと知らない、自分がどうしたらいいかもわからないと話したい？」
「そう。伝わってよかった」
「最初に君は、長い話があるって言ったよね。僕に、君の過去の話をしたかった？　恋愛が普通のことではないという話。それで、ベッドで話す前よりも頑張って、言葉を勉強してた？」
「はい。生まれた国がどんな国だったか、説明する必要があると思った。ボクがどうしてもミエルをわからない理由のようなもの。どう説明するか、ずっと考えてきた。ボク一人で考えるより、キミと話した方がいいと思った。でも、思ったように話せていない。いらない話が多かった。焦ってる、ミエルが聞きたいかもわからない」
「わかった。君の話は、なんでも聞きたいよ。ここまでの話も、とてもわかりやすかった。君が頑張ってるのも伝わってくる」
「ミエルが安心するため。ミエルの顔や声から、少し怖い、苦しいが減った。今、ボクは、とても嬉しい」 

　自分を細かく観察されて、気持ちを悟られるなんて、嫌なはずなのに、レモーノの微笑みの前では、不思議な安心感があった。僕の要望に合わせて、いつも彼の方が言動を変えてくれるからだろう。

「そうだね、僕も、レモーノを知って、怖いや苦しいと思うのを減らしたい。まず、君の生まれた国がどこにあるのか、教えてほしい。僕は、わからないことや知りたいことがあったら、質問する。レモーノはゆっくり話してよ」
「ふふ、そうしよう、んふふ」 

　喜びすぎである。しかし、僕と話したいがために、留学生並みの勉強量を、仕事と同時にこなしてきたのだから、僕の言葉がわかると思ったら、相当嬉しいだろう。レモーノは単純で、素直だ。

「この国の東の方に、港があるのはキミも知ってる？」
「あるね。テラット海に出る港だ」
「てらっとかい……港の人もそう言ってたのを、よく聞いた。その海の、ずっと向こう側にある、メルバンカの国の話は、ヨセフから色々と聞いた？」
「聞いた。でも、ヨセフは、レモーノの生まれた国はメルバンカではないかもしれない、とも教えてくれたよ」
「合ってる。ボクの生まれた国は、メルバンカの国から、ずっと北だ。今まで住んだ場所で、一番寒い」
「涙が凍るくらい寒いんだもんね」
「そう。とても寒くて、とても広い森の中にある。森の奥にずっと行くと、とても硬い、黒い石が手に入る山がある。あの場所に、名前があるのかも知らない。八歳のときに出てきたから、ほとんど覚えなかった。ボクは男性だから」

 

「一旦、質問してもいい？」
「いいよ」
「レモーノの故郷が、メルバンカとは別の国なのはわかった。八歳で出てきたって言ったけど、今、本当は何歳？　二十歳よりも、もっと若いの？」
「二十歳くらいは、多分嘘じゃない。ごめん、生まれた国は、冬ではない日がないから、四百日で一年を数える。でもメルバンカでは、夏しかなくて、三百日で一年を数える。メルバンカで、十歳と決めた。メルバンカの数え方で、十八歳で船に乗った。少しの間、五百日以上は、旅をした。ミエルの数え方では、もっと多いかもしれない。ここの一年は、四百日よりは短いように思う。時間の数え方が、国で違う」
「時間の数え方にも違いがあるのか。でも、僕が今、二十五歳だから、二十二、三歳くらいかな？　僕より君の方が若い気がする」
「それならボクも二十五歳がいい」
「あと、君の国では、男性は言葉を覚えないの？　レモーノは男性だから覚えてないという話が気になる」
「この国ほどいっぱいは覚えない。知らない。そうだ、一番違うのは、女性と男性の話。これは知らないと、ボクの話は、ほとんどわからない」

  

「まず、女性はここに……言葉がわからない……男性にはある」
「ああ、わかるよ。それはこの国も同じ」
「それは同じ？　子供が十五歳より生きると大人、大人は子供よりも、していいことと、しなければならないことが増える。何歳からが大人かは、国が変わると変わる」
「そうだね。ここは、十六歳からが大人だ」
「女性と男性、子供と大人は、住む場所が違う。ボクの生まれた国は、高い壁で囲まれている」

 

「女性と、生まれてすぐの子供は、その壁の内側に住んでいる。森にいる熊に襲われないようにしている。男性は五歳になると、壁の外側に住む。国の意味に近いのは、壁の内側なのかな。男性の住む場所は、森の方だから……説明が難しいね」
「レモーノの生まれた場所では、五歳から男女の住む場所が、別になるのはわかったよ。高い壁があって、中も見えない」
「そう、それがわかればいい」 

　つまり、物心がついた頃には、日常生活から女性がいなくなるのだろう。

「壁の外は、みんなで掘った川がある。この川の水は、壁の内側の大きな釜で雪を煮て、水にする。これは、女性の仕事かな？　壁の修理とこの川の掃除は、生きるのに必要だから、外側にも人は必要だった」 

「男性は森で狩りをしたり、草と木の実を集めたりして生きていた。大人になると、熊と戦う仕事と、山から石を手に入れてくる仕事もする。熊は人を食べるときがある。あと熊がたくさんいると、川の魚が減るので困る。人を食べない鹿でも、今のボクより大きくて強い。壁の外は危なくて、今のボクの歳くらいで、ほとんどの男性は死ぬ」
「常冬の寒い森で、大型の肉食獣もいる……それは過酷だね……女性と子供を隔離した方が、全体の生存率は上がるのか……大きな釜があるなら、まだ暖かいだろうし……」
「難しい言葉……男性は壁の外にいて、仕事がたくさんで、早く死にやすいのは、わかった？　女性の仕事は、わからない。見られないから」
「わかった」

「子供が生まれるには、男女のセックスが必要だね？　ただ、生まれた国のセックスは、この国みたいに……なんだっけ……好きな人と気持ち良くなるためにすることではない。メルバンカの国のように、結婚した人とすることでもない」
「男性は、壁の中にいられないから？」
「そう。一年に二度、大人、十五歳以上の男性の中から、セックスの仕事に就く人が選ばれる。その時に生きている人たちの半分の数が、壁の中に連れて行かれる。女性とのセックスは、仕事の一つだった。十日でまた壁の外に帰る」 

　すごい国があったものだ。国という概念があるのかも怪しいが、とりあえず恋愛をしている時間や機会、男女一組で結婚して、生まれた子を各家庭で育てる習慣はないらしい。男女が別に暮らしていて、セックスが任命されてする仕事の世界なんて、想像できない。

「レモーノは前に、父親や母親、兄弟姉妹を知らないって言ったけど、この国みたいに、家族が存在しなかったの？」
「そう、家族はない。誰も知らない。ボクが誰と誰の子だとか教わらない。子供のお世話をする女性は、いっぱいいたように思う。覚えていない。誰がボクの父親だったかはわからない。多分、向こうもわからないと思う」
「それは難しいだろうね」
「仕事はチームでするから、教える、学ぶ、一緒に行動する人はいた。兄と弟がいる感じは、少しわかる。妹がいる感じは、全然わからない。生まれた国の、一緒に住んでいる人は、生きる仲間や仕事の仲間の感じ」
「生まれた国のことは、少しわかったよ。恋愛と結婚、あと家族もないって話の意味はね。でも、恋愛や結婚がどういうものかは知ってたよね。森を出てから、どこかに行って知った？　メルバンカ？」 
「そう。結婚を知ったのは、メルバンカの国。恋愛は、メルバンカの言葉だけ知ってる。でも、この国の人の恋愛とメルバンカの人の恋愛は、言ってることも、することも、違う気がする。ごめん、ずっと説明できなかった。ミエルを騙していた。そろそろボクは許されない」
「いや、えっと、レモーノには生まれた国と育った国の、二つの故郷があるってことでいいんじゃないかな？　生まれた国のことは、子供の記憶だろうから、説明しづらいよ」
「二つの故郷は、いい考えだ。スフィリットの国も故郷にしたい、一番好きだから。大切なミエルの生まれた国」

  

「メルバンカの話の前に、なぜ生まれた国を出たの？　聞いても大丈夫？」
「大丈夫。ボクはルールを破った。仕事をするとき、夢中になってはいけない。帰り道がわからなくなる。森の中に地図はない。ボクは、夢中になりやすい人だ。初めて見る生き物を追いかけていたら、帰り道がわからなくなった。歩き続けたけど、森を出てしまった。森を出たら、もう帰れない」
「確かに、レモーノの集中力は桁外れだな。それで森に戻らずに、メルバンカまで歩き続けたの？」
「何回か戻ろうとした。ダメだった。追いかけた生き物は、この国の猫に似ている。森の中を迷っているとき、ボクは穴を掘って、木の実を置いて、よく兎や子供の鹿を獲った。食べるためというより、ボクの代わりに食べられるため。獲った肉は、干して持ち歩いて、熊や猫に渡す。ボクの近くにいると、お肉が手に入るとわかった猫は、ボクを追いかけるようになった。多分、彼らは、ボクを毛のない子供の猫だと思っていた」
「もしかして、その猫みたいな生き物も大きいの？」
「大きい。このソファーくらいあった」
「ソファーサイズの猫！？」 

　僕は、思わずソファーの背もたれを撫でた。

「ボクは狩りが上手いから、猫は暫くボクについてきたと思う。子供がいっぱいの猫だったから、狩りが上手いボクがいると楽できる。ボクは寝るとき、猫がいるとあたたかい。子供が一人より安全。ボクと猫たちは、生きる仲間になった。お肉と寝床を交換した」
「うわ……絵本のような話だ……そのレモーノすごく見たいな……」
「確かに、本の話みたいだ。猫たちの寝床は、森を出た先の、川の近くにあった。川には、時々、他の人が来た。森以外にも人が住んでいるのを知った。川を離れると、飲む水がないから、川に来る人を少しずつ追いかけた。猫たちとは、植物がなくなったところで離れた。植物がなくなったら、人が増えた」
「そうか、その川が、生まれた国からメルバンカにまで流れてたのか……よく大きな猫たちと川のほとりの生活やめられたな……その生活してみたすぎる……」
「ミエルは、猫が好きだね。毛深い猫に、南の方は暑すぎた。ボクも何度も死にそうになった。生きるのが大変だった、この国に来るまで。この国の太陽は強くないし、気温が生き物にちょうどいい。毛深い猫もきっと住める。好きなら一緒に住むといい」
「ボクの父が動物嫌いで、家のルールでダメだったんだ。レモーノは、猫が好き？」
「好きでも嫌いでもない。猫はレモーノが好き。狩りが上手かったり、お肉を持っていたりするから」
「動物の感性だ。いつか飼おうかな…」
「ミエルが猫とばかり一緒にいたら、ボクは寂しいよ」 

　そういうことをサラッと言わないでほしい。恋愛がない感性で育ったせいで、レモーノには加減というものがない。

「話を戻そう。猫たちと別れてからはどうしたの？」
「猫たちと別れて、ボクは牛や豚が沢山集まっている場所に出た。猪に似ているから、豚を仕留めた。簡単で驚いた。その豚からお肉を取っていたら、『ご主人』が走ってきて、ボクはすごく怒られた。『ご主人』はお肉のお店の人で、豚はお店の商品だった。随分鈍臭い猪だと思ったら、猪にたくさん食べさせて、鈍臭くした。たくさん食べた猪は、畑も荒らさない、逃げない、太っているからたくさんのお肉が手に入る。それは賢いなと思った」
「ああ、レモーノは牧場で狩りをして、オーナーに捕まったんだね」
「そう、今考えたら、ボクは泥棒だった。でも、ボクを怒ると猫が怒る、お肉の切り方が上手い、言葉のわからない子供だからって許された。あと『ご主人』もちょうど働く人間を探していた。お店で仕事を手伝う代わりに、服を貰って、部屋を借りて、色んなことを教わった」
「どんな国でも、お肉を捌ける人は重宝されるんだ。力もいるし、あまりいい気持ちのする作業でもない」
「生き物を殺すのは、狩りが普通の国でないと、つらい。『ご主人』は牛や豚を子供から育てていたから、仕事がつらいだった。野菜と違って、血も出るし、お肉はくさい。でもお肉は美味しいから、みんな食べる。人も猫も熊も。鹿はお肉を食べないのに、なんであんなに大きいんだろう。鹿が一番怖い。生まれた国の壁も食べる」 

　牧畜と食肉販売を両輪で務めるのはつらいだろう。しんみりした話に聞いていたのに、突然鹿への恐怖を持ち出されて、反応に惑う。僕の知っている鹿と、彼の話に出てくる鹿は、恐らく別の生き物だ。なんだかレモーノの考え方を理解する自信がなくなってきた。

「その『ご主人』さんと住んでたのが、メルバンカ？　また別の国？」
「メルバンカの国。でも港よりも離れてる場所。十八歳になるまで住んだ。ボクの歳と名前が決まったのは、『国民管理局』という場所で、紙を渡したとき。ボクは『ご主人』の家の子供になった。メルバンカでは、それで家族を作れるみたい。『ご主人』はお金も持ってたから」
「子供は雇えなかっただろうしなあ。養子にしたんだ。レモーノは、名前をレモーノと決める前は、なんて名前だったの？」
「マーナガルムという目印はあった。ネックレスに焼いてある」
「まな……？」
「生まれた国では、誰が母親かの目印に、神様の名前を使う。多分、僕と同じ目印の人とセックスをしないようにする。それと、親が子の名前を考えると、子と離れるのがつらい」
「名前をつけると、愛着がわくもんね。レモーノたちは、五歳で壁の外に行かないといけない」
「そう、それで神様から名前を借りる。生まれた国で、子を産むことは、神様から任される仕事だった。だから、逃げることは許されない。十歳になると、自分の名前を決められる」

「えっと、レモーノの中では、もう一つの方は、自分の名前ではないという感覚なの？」
「うーん、人に覚えられたり、呼ばれたりするための名前ではない？　ボクはどういう神様の名前を借りているかという感覚はある。ボクはこういう人間だという話に、その名前は関係あると思う」
「どういう神様の名前なのか、僕が聞いてもいいこと？」
「……ミエルが、もう夜の空を嫌い、月は怖いでないなら話すよ」
「ああ、なんか、わかる気がする。月に関する神様なんだね」 

　もう一つの名前の方も覚えたかった。僕はあまり人と会話するのが好きではないので、音を聞き取るのは、レモーノは勿論、他の人よりも苦手だった。ただ、ネックレスを僕に渡す前に言っていた台詞に、その名前が出てきたのだけは覚えている。

「その後、学校に行くかって聞かれた。でも、ボクは長い時間、静かに椅子に座ることができなかった。“動いていないと死んでしまう”の考えで、生きているから」
「極寒の地で育ったら、そうなるよね」
「あと、メルバンカは、とても暑い。太陽が出ているとき、外に出られなかった。普通の子供になれなかった。『ラジオ』がボクの先生だった。目が見えない子供や、文字が読めない子供は、文字を音にした『ラジオ』を使って勉強する」
「それで君は、言葉を耳で聞いて覚えることが得意なんだ」
「とても得意……というか、慣れている？　文字から学べない。この国に来て、初めて本を読むをした」 

　ヨセフもレモーノの語調の話になったとき、『ラジオ訛り』という言葉を使っていたが、音声教材特有の話し方を指していたのだろう。そういえば、レモーノはこの家に来たときも、本の量に感動していた。

「メルバンカは、どうして出てきたの？　嫌だった？」
「暑すぎた。あと十八歳の……大人のお祝いだと、『ご主人』に言われて、いっぱいお金を貰った。これからは大人なのだから、やりたいことをやりなさい、自分の力でお金をもらいなさいと言われた。メルバンカの人は、みんな同じことをする。十八歳で、一度生まれた家を出る。ずっと乗りたかった船に何回か乗って、この国以外も歩くはした。生まれた国は、戻れなかった。子供でも、百日以上歩いたら、長い距離になる」
「川沿いの旅も、一年くらいしてたんだ。育った国を出てからも、旅をしてた。それでレモーノは、僕の家に泊まるのを拒んで、どこでも生きられるって言ったんだね」
「そう、初めて会った、言葉のわからない男性を家に入れるのは、とても危険だ。ミエルは僕より細いし、力も弱い」
「反省してる。でも、レモーノには理性を忘れるほど、惚れてしまったんだ」
「ボクだから良かった。絶対にダメ。本当に心配した」 

　しかし、どこかでレモーノは僕を守ってくれると、勘付いていたのかもしれない。襲ってきそうで怖いとか、内心馬鹿にしてそうで怖いとか、そういう恐怖がなく、ただ恋をしている人が抱くような不安しかなかった。怖くて、苦しくても、レモーノだけは傍にいてほしかった。

「ここまではわかった？　いらない話をした気がする」
「いらなくないよ。レモーノがどうやってこの国に来たかを、僕は何も知らないから、その話が聞けて嬉しい」

  

「メルバンカの人の生き方は、生まれた国よりも、この国の人と似てる。国のルールでダメなことが多いだけ。だから、ミエルもすぐわかると思う。ボクはいつも不思議だった。これがミエルは、恋愛がある国の人には、わからない感じだと思う」
「いつも不思議だった？　女性と話すのは難しいって、前にも話したね」
「はい。女性と同じ街を歩けるのが、本当に不思議。まだ、どうしたらいいか、わからないときがある。生まれた国の女性は、壁の向こう側の人だった。選ばれた男性しか壁の中には行けない。女性がどう生きてるか、生まれてすぐの子供は覚えられない。なんか怖かった、気はする。思い出したくない」
「そうなんだ……壁の中に呼ばれた男性は、見たことがあるの？」
「ある。選ばれた男性は、目隠しをされて、腕と足を縛られて、連れて行かれる。それがボクの生まれた国の普通。ミエルはそんなの、普通じゃないね？　同じ道を歩いている。話もできる。恋愛も結婚もできる。一緒の家にも住める。体を縛られて、仕事のようにセックスさせられることもない」
「ええ……確かに、普通ではないな……まあ、狩りで生き残れる男性なら、そうでもしないと難しいのかもしれないけど……」
「もっと簡単な話。女性が怖くて、セックスの仕事はとても嫌だ。みんな逃げたい。森に逃げれば、女性は追いかけられない。仕事を終えると、壁の外に帰るけど、帰ってきた人、暫く何もできなくなる。ずっと震えている。子供ができるからセックスだと言っているけど、同じことだと、ボクは思わない」 

　壁の中で行われることに想像がついて、僕も震え上がってしまった。
　レモーノの生まれた国の男性にとって、愛や幸せに近いことは、何だったのだろう。狩りが成功することだろうか。生きる仲間がいることだろうか。確かに“ミエルが考えている恋愛は、レモーノの生き様にはない”という話になる。

「街で女性と暮らすのが不思議だったから、『ご主人』さんになぜって聞いたの？」
「そう。『ご主人』の家の中にも女性がいた。なぜ女性と男性が並んで歩いてるのか、なぜ男性の『ご主人』の家に女性がいるのか聞いた。そのときに恋愛と結婚と家族を教わった」
「いつも不思議だった、の意味もわかったよ。海の向こうには、男女が一緒に生活してなくて、恋愛も結婚も存在してない国もある。季節が一つの国もあれば、たくさんの国もある。大きな猫もいる。色んな国があるんだね。“普通の生き方”は、人間なだけでは、同じにならない」
「そう。ミエルが恋愛のない国もあるのがわかって、ボクは嬉しい。多分、ミエルから見たら、ボクの生まれた国は、恐ろしい国だね」
「少なくとも、僕は生きていけないだろうね……」 

　森の奥深くで危険な場所だから、訪れることから難しいだろう。レモーノの故郷には行ってみたい、ここまで自分を理解するのに尽くしてもらったのだから、自分も同じ努力をしたいと思ったが、現実問題、無理に等しい。
　寂しさや無力感はあるが、幼いレモーノが家に帰れないことに気付いた気持ちに比べたら、浅く薄いものだ。メルバンカならともかく、彼の生まれ故郷に行ってみたいと、軽率に言わないことにした。 

「だから、好きとか、恋愛とか、ボクがキミと同じように考えているかが、わからない。ミエルがボクを好きなことで悩む理由も、まだよくわからない」
「そう感じるよね。僕も、恋愛が普通の生き方だと思わないことの意味は、君の生まれた国のことを知らなかったら、全然わからなかった」

「人間は、生きる時間が長いほど、難しい生き方をする。ボクは、仕事をして、食べて寝るだけの生き方をしてきた。メルバンカでは、体を洗う時間と勉強する時間が増えた。この国では、ミエルと話す時間とこの国のことを知る時間が増えた。ミエルに恋をする時間も、ボクはほしい。知らない、わからない、だけど、嫌ではない」

 

「だから、キミがボクにキスしたいと思うことは、何がいけなくて、なぜミエルは、ボクがキミを嫌がっていると思うのか、全然わからない。でも、キミはボクと一緒にいたいと言う。キミの言葉と心の違いが何か、ボクはあの日からずっと考えている。キミは、難しい。キミがしたいことを、ボクもしたいかって聞かないから。キミがボクにキスしたいと思うのは嫌か、あの後も、どう思うかいっぱい考えたけど、まだわからない。カフェに、キスする人たちがたくさんいるけど、みんな楽しそう。キスしたいの気持ちはわからない。キスしたいと思われる気持ちは、もっとわからない」
「そっか……そうだよね……もう考えなくていいよ。キスしたいと言ってほしい、キスしていいか、君に聞いてほしい？」
「そう。キスしたいと思うことはなかった。恋愛を知らないから。ミエルがしたいと思うこと、ボクはほとんど知らない。考えたことがない」 

　レモーノの生まれ故郷に恋愛の概念がなく、家族という仕組みも全く違って、“好き”や“恋愛”が僕らの間で同じ意味をなすはずが、伝わるはずがなかった。彼は学校にも行かなかったようだから、恋愛がある国の周りの同世代の生き方を真似するという育ち方もしなかった。
　それなのに僕は、ずっとこの国の常識や、そこで生まれ育った自分の考えに固執して、こう言えば彼にも伝わって当然だ、と思い込んでいた。レモーノが世界から何を感じながら生きているのかなんて、考えたこともなかった。おおよそ自分と同じだろうと思っていたから。
　キスしたいと思わない、が、僕がキスしたい相手ではないの意味ではなく、そもそもレモーノの心にキスをしたい気持ちが存在しないの意味だなんて。 

「キスのことで、伝えようと思ってたことがある。でも、もうミエルは大丈夫かもしれない。ボクの考えは、聞きたい？」
「聞きたい」

  

「キミは、ボクにキスしたいと思っても、誰かのキスしたいを拒んでも、悪くないことだと、ボクは思う。特に、キスしたくない人と、キスしなくていい。キスは、生きるのに必要ではないね？」
「うん、まあ、そうだね」
「顔と顔が近付くと、ボクは怖いと思う。キスは歯がぶつかる。人間の歯は丸いけど、生き物の言い方したら、牙だ。生き物が生き物に牙をぶつけるのは、狩りと縄張り争いのとき。牙が刺さったら傷がつくし、牙が折れたらお肉を食べられないから、生き物は死ぬ。猫に好きだってキスしたら、多分引っ掻かれる。僕は、猫と生きてた時間がある。メルバンカでも、周りに牛や豚の方が多かった。だから、人間の生き方や考え方を、ボクはあまり知らない。キスしたいという気持ちは、わからない」 

　レモーノの感性だなあと、他人事のように思う。しかし、僕には求愛行動で羽根を広げる孔雀の考えることがわからないのと同じように、レモーノにもキスをする人間の考えることはわからないのかもしれない。
　なぜキスをするのか、なぜその行動に愛があると思うのか、と聞かれたら、僕も答えられない。ふれていい場所、していいことを増やしていって、最終的にはセックスをする。無粋な考え方をすれば、そんなところだ。

「違うなあ。キスの方じゃなくて、ボクは怖いと感じるのは、必要なことだと思う話がしたい」
「怖いと感じるのは必要なこと……確かにレモーノは、いつも僕に、もっと気をつけてと言うよね」
「うん。気持ち悪いとか、嫌だとか、そう感じるのは、生きるのに必要。怖いと感じるときに、逃げたり、嫌だって言ったりする。一回目は感じることがわからないから、いいって言っても、二回目は嫌だったら、その時にやめてって言う。逆もある。それは、自分を守る行動なだけ。えっと、言いたいのは、キミの心が感じることと、自分を守る行動は、何も間違ってないと、ボクは思う」
「ボクの心が感じることと、自分を守る行動は、何も間違ってない……」
「そう、思う。でも、怖いとか気持ち悪いとか感じるキミを怒る、それを人に伝えるのをダメと言うは、ボクはやめてほしい。心の感じることは、伝えないと、ボクはキミが何を感じるのかわからない。キミは、自分のことを守れないね？　過去のミエルはきっと、怖いと感じたから、キスしたいって言った相手に、したくないって言ったはず。それも、きっと間違ってない。それとも過去のミエルは、何かルールでダメなことをした？」
「し、してないけど……そうだね、僕は何も、ルールで間違ったことはしなかった」 

　社会性や常識からは、はみ出た気がするが、それをレモーノに伝えても混乱するだけだろう。それにスフィリットでは、恋愛も結婚も義務ではない。

「恋愛がない国、生まれた国でも、怖い、嫌だ、やめて、やりたくないって言うのは、怒られないよ。セックスの仕事は、逃げられないけど、新しい命を繋ぐには、必要なことだ。壁の外のルール？　嫌だと言われてもやめない人は、とても怒られる。逆さまにされて、汚い水をかけられる。やられた苦しみを同じにする。それが嬉しい人は、いないね」
「かなり重い罰なんだ」
「見たことはないけど、ぼくらはそうやって、絶対にやってはいけないことを教わる。狩りで生きるボクらは、一度集中すると、感じる力がなくなりやすい。キミは、お肉じゃないけど……でも、多分、キミとキスしたいと強く思ったら、キミが嫌だとか怖いとか感じていること、ボクは感じることができなくなる。獲物が痛い、怖いと思ってるのを感じたら、お肉を取れなくなるね？　自分が痛い、怖いと思ってたら、熊と戦えなくなる。キミが知る以上に、ボクは怖い人だ」
「なるほど……狩りをして生きることが前提だと、痛みや恐怖を感じなくなるのは、必要な能力か……」 

　レモーノがまだ恋愛を知らなくてよかった、と思ってしまった。あれほど彼が性欲に駆られることを望んでいたのに、ほぼ野生の肉食獣と変わらない能力の持ち主だと思うと、単純に恐ろしかった。相手が嫌だということを無理強いすると重罰になる国の生まれでよかった。

「逆さまにされるのは、五歳の子供がみんなやられる。汚い水はまだかけない。でも、逆さまも本当に苦しい。それくらい、嫌って言ったことを無視された相手は、苦しいって覚える。嫌だと感じることは、生きるのに必要なこと。ボクらは、嫌だと言うときに、相手を殴り飛ばしても許された。そうでもしないと、その人は止まらない」 

　熊とも対峙するような狩猟生活で生きる人たちだ。殴って止まれば、まだいい方だろう。水を浴びせて逆さ吊りの刑なんて、極寒の森では死刑だ。
　だからレモーノは、自分にやめてほしいと言えることが、選択肢の中で最も簡単な方法であってほしいの考えを持っている。相手の嫌がることをし続けることが、彼が最初に覚えた極刑の罪だからだ。

「そういう国だから、誰かと二人になるのも、していいことではなかった。大人になって、ネックレスを交換した相手だけ。人の気持ちを無視するのは、生きるのに必要なことを奪うから、その人を殺すのと同じ……言い過ぎかな？　心泥棒と同じ。本当にやってはダメなこと」
「心泥棒……でも、わかるよ。自分の気持ちを無視されることは、一番つらいことだ」
「だから、その、キミもミエルを怒らなくていいと、ボクは思う。過去のミエルも、今のミエルも、何も怒ることない。ボクは嫌がってないし、嫌だとも言ってない。キスしたいかと聞かれてもいなかったから、答えられなかった。でもしないって言ったし、ミエルもしなかった」

「ああ、でも、メルバンカではわからない。嫌だと言えない、言っても聞かないは、よく問題になった。力の違う人が、同じ家に住むのは大変なのかもしれない。力が弱い人は、強い人にやめてって言いづらい。みんながボクみたいに、どこでも生きられる人ではない。家にいる方が、外にいるより、怖いことは少ない」

「ボクは狩りができる、自分より大きい生き物を殺せる、強い人だ。熊や猪に比べたら、人間はとても弱い生き物。だから、本当は嫌だけど我慢するとか、ボクはする必要がない。でも、ミエルは、ボクがどこでも生きられて、力が強いのも知らない。この家に住むために、嫌でも我慢してるという考えも、ミエルが我慢してたのかなと思った。この前まで、ミエルが考えるボクは、過去のミエルだったって話を聞いて、そう考えた」

「ごめん、怖かったことは、人に話したくないね」
「いや、その通りだよ。家だけじゃない。子供の頃だけじゃない。僕は、どこでもそうだ。今でもそうだ。ここでしか、こうでしか生きていけないと思ってる。嫌でも我慢して、本当の願いを話せない」

  

「君は、君の心が感じる通りに、話してる？」
「言葉がわかれば話している。特に何も我慢していない。我慢する理由もない」
「僕も、そうできたら、いいんだけどさ……」
「しなくてもいい。ミエルは、理由があって、心と同じ言葉を話さないと思う。ボクはただ、キミが苦しまなくて済む、苦しみが軽くなる話し方を見付けたい。ボクみたいに生きればいい、とは言わない。厄介なことがよくある。ボクの生き方に、ミエルが耐えられるとも思えない。ミエルの生き方は、ミエルの心が決めることだ。嫌なことを話したくない、我慢する方が楽、本当の話をして嫌われるなら話したくない、それも全部、キミが決める。すぐに決まることでもない」

「ミエルの中には、気になるとか、やってみたいが、きっとある。たくさんの物と時間のある国だ。何かができなくても、死んでしまうことはない。やりたいことは、生きている間しかできない。キミを何もできないと決めた人は、今、キミの傍にいない。今、キミの傍にいるボクは、ミエルなら何でもできると思う」

「レモーノは、僕なら何でもできると思う？」
「できる。ミエルではない生き物になること以外は、何でもできる」
「そうだね」

「ミエルは、レモーノが好きだ、キスしたいって思うミエルを、これからは怒らない？　ボクは、ミエルがミエルを、怒らないでほしい。ミエルは、何も悪くないよ」
「……わ、わからない……」
「ふふ、また新しい“わからない”だ。でも今までで一番、ミエルのわからないの心が表れてる」

 

「ボクはまだ、話が下手だね」
「ええ、なんで！？　僕はレモーノのことたくさんわかったよ…」
「とても長くなった。たくさんわからなくてもよかった。ミエルがボクに恋していても、ボクは嫌じゃないの、信じてほしかっただけだ」
「それを信じるのに、今日の話は必要だったよ。それに、話も下手じゃない。初めて話したときより、ずっと上手く話せてる」
「それは確かにそう。あの時、ボクは赤ちゃんみたいだった。でもずっと覚えてる言葉がある。ミエルのありがとうのごはん」
「よりにもよってそれ？　忘れ物を届けてくれた御礼に、食事を奢りたかったんだよ」
「言葉わからないときのボクに、ミエルだけが使えた言葉。あの日だけの特別な言葉。忘れられない。そこまでして、ボクにありがとうと伝えたい人は、キミしかいなかった」 

　もっと高尚な言葉がよかったと思ったが、レモーノに紅茶を飲みたくないと伝える場面でなくてよかった。

「先に、謝るよ。謝りたいから。僕は君を、間違って考えてた。お互いに知らないことの方が多かったのに、僕の生き方で、君の生き方を決めてた。それは、本当にごめん。君が僕といるのは、住む場所が手に入るからだと思ってた。住む場所がなくなると困るから、僕に嫌だと言わないのかと思ってた」
「ミエルと住みたいから住んでる。別に嫌でも、我慢してないのも、わかった？」
「わかった。それと、さっきは焦って、わからないって言ったけど、僕はレモーノが好きだ。この好きは、食べ物や音楽に使う好きとは違う。君にだけ、感じる、好きの気持ちだ。君と過ごす時間が、本当に心地良くて、長く続いてほしいと思う。一緒にいたい気持ちは、嘘じゃないし、話を聞いて変わってもいない」
「よかった。それはボクも同じだ」

  

「でも、僕は、一緒にいたいだけじゃない。君にふれたい。君にふれられると、もっとふれてほしいって思う。この前みたいに、抱きしめてほしい。キスしてほしい。何なら、その先の、ことだって。僕は君に酷いことをしたのに、それを許して、傍にいてほしい。僕が君に願うこと全てを、叶えてほしい。そういう願いを、今までは、好きという言葉で隠して、伝えた気になってた」
「たくさんだね！？　全然わからなかった」
「レモーノは、人と恋するのに慣れてると思ってたんだ。恋愛の意味で好きだって言ったら、キスやセックスもしたいって、話だって……思ってたから……恋愛上手は、目を見るだけで相手の気持ちがわかるというし……」
「それはすごいね。でも、目を見ると気持ちがわかるは、ちょっとわかる。ボクは、相手の怖いとか、嫌いとかの目しかわからないけど」
「そう言われると、僕もそうだ」 

　レモーノの“好きでも嫌いでもない”がふと脳裏を過ぎる。初めて会った彼の澄んだ目は、“好きでも嫌いでもない”の眼差しだった。どちらでもない眼差しが、僕の心の鍵を開けた。

「ボクもミエルのお願いは、できるだけ叶えたい。でも、ミエルの心は難しいで、ボクの心は知らないが多い。ボクにこれをしてほしいとか、ボクとこれをしたいとかの方がわかる。してほしくない、やめてほしいも」
「それを言うの、僕は恥ずかしいと思っちゃうんだけどね」
「何……じゃない。えっと、はずかしいはどう感じること？」
「あー……えーっと……例えば、女性がレモーノに裸を見られるみたいな……」
「それは一大事だ……ボクは棒で打たれる……」
「ごめん、例えを間違えたよ。焦るとか、心配するとかに似てる……こう、心がワーッてして、えっと、何かに隠れたくなる気持ち？」
「ああ、確かに。裸を見られるは、ワーッてして隠れたい」

 

「でも、ボクはレモーノに伝わることが大事だから、したいことを言うのも、裸を見せるのも、レモーノになら、いいよ」
「本当に？　今のキミの顔は、はずかしい、隠れたいの顔だよ」
「君は、僕の顔をよく見てるんだね……」
「はずかしいのに、嫌なのに、言ったり、見せたりしなくていい。隠したいものは、隠したらいい。安心してからにしよう」

  

「ボクは、キミとこれからも一緒にいたい。だから、キミがボクといて安心すること、ボクはそれが一番大切なんだ。キミのお願いを聞くのは、それからにしたい」
「わかった。レモーノは、いつも僕の気持ちを考えてくれたね。ありがとう。一緒にいて、君の傍にいるのが、僕は一番安心する」

  

「この前は、しないって言ったけど、でも、今なら、キスもしたい。ミエルは？」
「し、したい……レモーノとキスしたい……」 

　レモーノは僕の頬にあった二人の手を、自分の肩に導いた。開いていた隙間を詰め、なぜか僕のお腹に手を乗せる。彼の手のひらの熱を感じて初めて、自分の体が冷え切っていることに気付く。彼は極寒の地の生まれで、こうして熱を分け合うことが習慣だったのだろう。大きな釜で煮られた雪のように、熱を帯びた涙が眼球を覆う。

「大丈夫？」
「無理。壊れそう」
「大変だ。先に、ハグにしよう。安心してほしい」

　お腹に添えられていた手が背中へと回る。ゆっくり抱き寄せられて、大きく撫でられると、ポロポロと涙が溢れてきた。

「レモーノ、や、じゃない？　ほんとに、迷惑、だと、面倒だっ、て、思って、ない？」
「思ってないよ。ミエルは、本当に美しい人だ。とても大切な人。今、ボクはとても嬉しいと思ってる。ミエルは？　ボクが嫌がってると思う？」
「思わない……っ、でも、まだ……嫌がってないと、信じて、喜ぶのが……こわい……」
「ごめんとこわいの気持ちが大きいか。あと、はずかしい」
「うん、でも、傍にいて。これからは、君の話を聞くようにする。レモーノと離れるのが、一番怖い。君に嫌われるのが怖い。君がわからないのが怖い」 

　初めてレモーノが家に来た日と、僕の心はずっと変わっていなかったのか。ただ、彼の理解が追い付いてきた。

「今までごめん、ミエル。レモーノを好きなミエルを否定して、傷付けて、本当にごめん。大丈夫だよ。安心して。ミエルとレモーノは頑張って、話ができるようになった。一人で“レモーノがわからない”の気持ちに悩まなくて、もう大丈夫だ。一人でよく頑張ったね。でも、これからのミエルは、一人じゃない。レモーノがいるよ」

　急にレモーノは、声色を変えた。まるで僕そのものの声だった。

「レモーノ……今……」
「どう？　似てた？」
「ちょっと鳥肌が立った。鳥肌はこれ」
「確かに、鶏のお肉みたいになってる」 

　僕らはクスクスと笑い合うと、体を離した。軽く汗ばむほどに、僕も熱を帯びていた。完全に元の位置には戻らずに、僕は空いていた手をレモーノの頬に伸ばす。恥ずかしいから目を閉じてと言うと、彼は少し不服そうにした後、すっと瞼をおろした。
　透けて見えるほど色素の薄い睫毛の落とす影から、そばかすの散る白い肌、唇が微かに膨らむのまで、ヒリつく目で見詰めてしまう。僕のだ、と、脳裏を過ぎる稚拙な思考を押し込めるように、僕も瞼を閉じた。
　緑の粒の散る闇の中で重なる柔らかな感触に、僕の腿は無様に跳ねた。走った後のように息を荒げ、レモーノの肩を鷲掴み、それでも痛くないようにと加減しながら、彼の唇を食む。彼は彼で、ガチガチに強張っていた。

「好きだよ、レモーノ、君が好きだ。僕は君を愛してる」
「ミエル……」
「はあ……可愛いな……可愛い僕のレモーノ……ずっと、君とキスがしたかった」 

　何度か頬を撫でた後、再び唇を重ねる。レモーノの体は強張ったままだが、嫌ではないだろうか。でも、彼は嫌だからと我慢することはないと言った。僕ではどんなに力を込めたって、彼を縛り付けることはできないだろう。

「キスするの、大丈夫？」
「わ……わからない……ボクは、ミエルと、キスしてるんだって……これがキスなんだって……それが、大きくて……それしかない……」
「ふふ、それしかないの？　気持ちいい？　痛い？」
「きもちいい……ミエルだけになる……」 

　本当にそれしか考えていないかのように、レモーノの声はふわふわしている。さっきまで手探りで自分の話をしていた彼と、本当に同一人物なのだろうか。

「これからも、僕の傍にいてほしい。僕と、恋をするのも、それで感じる気持ちも覚えてよ。僕に恋をする君に、ミエルが好きだって、愛してるって、言われたい」
「ボクも、キミの傍にいたい。キミに好きだって言われると、とても嬉しい。だから、きっと、ボクもミエルが好きだ。同じになってきたかな？　あいしてる、はわからない。恋をするのも覚えたい。キミと一緒に恋がしたい」 

　一緒に恋がしたいって、なんとも不思議な響きだ。

「あの、でも、ミエルは、ボクの話をわかった？　ボクの言いたかったこと……」
「うん。レモーノのこと、もっと近くて、似てる国で生まれて、僕らは話す言葉だけが違うんだって思ってた。だから、考え方や生き方は似ていて、同じ言葉さえ使えれば、考えや気持ちは伝わると思った。レモーノは特に、僕のことよく見てるから。でも、僕らはそもそも生き方が違う、相手の気持ちを理解するのは、とても難しいと、ずっと伝えたかったんだね」
「そう、全然違う。言葉がわかっても、ミエルの気持ちをわかるまで、なかなかできない」
「君が頑張って言葉を覚えている理由も、僕の気持ちを知るためだと思わなかったから、僕の気持ちは君に隠してた。ごめんね」
「隠してもいい。楽になるなら話す。何度でも言うけど」
「うん……また今度、僕の過去の話をするよ。聞いてほしい。そしたらレモーノも、僕のことがわかると思うから」
「わかった」

 

「でも、君が話せるようになって、良かった。僕を知るために頑張ってくれて、ありがとう」
「嬉しい。ミエルもたくさん頑張ってるよ。ボクを知るの、本当に大変だと思う。二人で相手を知る方法が、あまりにも少なかった。メルバンカの人みたいに、生き方が似ているから、見えているものからわかるでもない」
「確かに、僕に見えてるレモーノから考えてたことも、全然違ったね。恋愛上手で、経験も多くて……まさか女性が同じ街を歩いてるのが不思議だと思ってたなんて……そんなレモーノ、想像すらしなかったよ……」 

　かつてない衝撃だった。
　しかし、少し考え方を変えれば、レモーノたちは男性だけで暮らすのが普通ということだ。女性と会えるのは、小さな子供か、選ばれてセックスをするときだけ。そのとき以外にも、性欲が起こるときはあっただろう。男性同士で満たし合っていたのだろうか。 

「レモーノ、ごめん、生まれた国のことをいくつか聞いていい？」
「いいよ」
「壁の外側では、男性だけで家に住んでたってこと？」
「そう。みんな男性。家はいくつかあって、仕事が終わったときに、一番近い家に帰る」
「キスとかセックスとかしてた？」
「キスはない……セックスは……あれはセックスかなあ……？　ちょっとわからない。でも、ハグはみんながする。寒いから。二人だけのハグはあまりしない。大人の秘密のことは、十五歳になったらできることだから、ボクはしたことがない。あと、同じ歳の人としかできない」
「それでさっき、“僕も二十五歳がいい”って言ったの？」
「うん……嘘はダメかな？　でも十五歳よりは老いているし、ミエルとボク、歳同じくらいだよ」
「この国では同じ歳の人とじゃなくても大丈夫だよ」

 　となると、レモーノの生まれた国の人たちは、どうやって愛情表現していたのだろう。

「そうでも、同じがいいのは、キミの苦しみをボクも感じるため。キミは賢いから、とても難しい考え方をできる。キミは優しいから、キミが苦しい生き方をできる。レモーノは違う国の人で、自分より若くて、この国のことはわからないのだから、ミエルが苦しいを選ばないといけない。ボクはミエルの言葉や行動から、その考えを感じる。ボクはキミが苦しく生きるの、自分が苦しいよりもつらい。年齢と性別が同じなら、お願いするの、楽になると思う。ミエルはボクで楽をした方がいい。そしてボクには、笑顔を見せてくれたらいい」

　多分、こう、だ。
　男性は仕事がたくさんで、日々命懸けだと言っていたから、お願い事をして楽をする、楽をしてほしいと申し出るのが、親愛の表現か何かなのだろう。苦楽を分かち合う、多分僕が考えるよりもシンプルで、とても大切なことだ。 

「確かに、レモーノよりしっかりして、僕が導いてあげないといけないって思って、苦しんでた。レモーノで楽をするって……ふふ、君の考え方は、実に斬新だな」
「じつにざんしんだ？」
「実には、とても。斬新は、僕には考えられないくらい新しい。君の考え方は、僕にはとても新しいものだって言った」
「キミはボクを褒めたの？」
「褒めたよ」
「ありがとう！」 

　レモーノがたまに不思議なことを言うのも、今ではすんなりと心に入ってくるようになった。肩の荷がどっさりと落ちて、まるで体重が半分になった感覚がする。彼に移ってはいないかと肩を撫でると、厚い筋肉の下に太く逞しい骨があるのが伝わってくるだけだった。

「これからも、ミエルは、ボクと一緒にいたい？　ゆっくり考えた方がいいね」
「考えなくても、答えられるよ。これからも、僕の傍にいてほしい。もっと、一緒にいたいと思うようになった」
「そうだね。安心の声をしている」
「そんなに違うの？　僕の声」
「違う。でも、少し嬉しいことを知った」
「何？」
「キスしたい、抱き締めてほしいの声を知った。今だけではなかったことも」
「レモーノ！」

　僕は生まれた場所の仕組みと言葉、常識を無意識に自分の人生に落とし込み、人と何かズレているのは、自分がおかしいからだと判断してしまう。
　しかし、レモーノから見えているこの国も、僕も、彼の生まれ故郷とは全く違う、何なら大半が未知の物事に溢れた世界だ。赤子のようなまっさらで柔らかな感性で、彼は僕を理解しようとしている。彼からしたら、全ての人間が不思議なことをしているようなものだ。
　同じにしよう、同じになりたいと、レモーノは、何度も僕に伝えてきた。わかりそうで、わからない言葉だった。苦楽を共にしたい、どちらかというと、僕が不必要に抱えている苦を、自分に渡して楽をしろと言いたいのだろう。彼が僕を知って、隔たりを埋めようと努力しているときに、僕は喜びを素直に表現できず、勝手に我慢して苦しみに変えていた。
　レモーノにお願いをして楽をする、喜びも苦しみも同じにする、それを彼が望んでいるなんて、どれも考えもしなかった。 

「長く話しちゃったね。本棚を片付けている仕事は、大丈夫？」
「えっ！？　あっ！！　もう真っ暗だ！！　どうしよう、寝る場所がない……」
「片付けはまた明日にして、夜のごはんにしよう。今夜はボクの部屋で、一緒に寝ればいい」
「……そ、それは……まだ早いっていうか……」
「？　ミエルは前に何度もボクのベッドに……」
「あ、あれは！　あ……いや、違う……そうしよう。レモーノのベッドに寝させてもらえると助かる。部屋が片付くまで」
「んふふ、それはきっと楽しい。片付けがずっと終わらなくてもいい。冗談だよ、次からはボクも手伝う」 

　レモーノは悪戯っ子のような笑顔を浮かべると、僕の顎に手を添えて、唇を親指で撫でた。恋愛がない国の生まれだ、今でもわからないなんて、嘘みたいだ。勝手に決め付けないように言い聞かせ続けても、僕はまだ、先入観や保身の毒から抜けることができなかった。

「もう一度、キスしてほしい、今度はレモーノから」
「うん、ボクもしたいと思ってた。でも、今のミエルの表情がもう少し見たい……ちょっと待って……キミはなんて、美しいんだろう……美しい色の唇だね……キミの目は、初めて行った湖のように、輝いている……キミの笑顔は、水のように、ボクの渇きを満たしてくれる……ずっと伝えたかった……」

　僕相手に、どうしてそんなにストレートに言葉を紡げるのだろう。
　本当は、口説くのに慣れてるんじゃないのか？　それとも知ってる言葉の中で、二人で感じた気持ちの中で、頑張って想いを伝えようとしているのか？　レモーノの心が、純粋で綺麗なだけなのか？
　恋愛は知らない、何でも聞いていいと言われたものの、どうしても聞けないものはある。

「いつもは、渇いてるの？」
「ものすごく……キミに何を言えば、わかるのかなあ。何をしたら、もっと笑顔を見られるのかなあ。どの言葉を覚えたら、喜ぶのかなあ。どうしたらキミと同じ心になるのかなあ。そういうことを考えて、渇いたり焦ったりしてる……キミの笑顔が、たくさんほしいで、かわく……でも、ボクが焦ると、いつもミエルを悲しいにしてしまう……」 

　冷静になって見たら、レモーノの表情は不安に揺らいでいた。僕にふれている手も冷たくて、微かに震えている。息だって荒くて、目も潤って輝いている。慣れてなんかいない。彼も藻掻いている。
　レモーノはいつも、僕の笑顔を見ること、僕が喜ぶことをしたがっている。でも、彼の中でそれは好きでも、恋をしているでもない。こんな、僕よりも情熱的に恋をしているように見えて。もっとずっとシンプルな、相手の幸せを願う心だ。恋愛という絢爛豪華な服を脱ぎ捨てた、素っ裸の心が目の前にある。 

「僕も、渇いてるし、焦ってる。早くキスして、レモーノ。抱きしめて、キスしてほしい。僕を、喜ばせてよ」

　いいじゃないか、過去がどうだって。今は、僕を欲して、一心に尽くしてくれているのだから。他の誰が、僕の言葉を覚えて、僕に生きたいように生きてほしいと言ってくれるだろう。
　唇が重なると、レモーノの手は僕の顎を離れて、背中に回った。僕も腕を彼の肩に巻き付けて、後頭部を掴む。抱きしめる力が強くなって、露骨に気分も盛り上がってくる。悪戯に彼の唇を舐めると、鼻にかかった声が漏れた。 

「ミエル、どうしよう、それは、なんか、もっと、焦ってきた」
「もっと焦ってきた？　どういう意味？」 

　しわくちゃになるほど、レモーノは目を強く閉じていた。忙しなく僕の背中を撫で回した後、彼は僕の服を襟元が引っ張られるほどに強く掴んだ。

「ミエルの、肌がさわりたい。抱きしめたいけど、服が邪魔だ。脱いでほしい。体も苦しいから変えたい。でも、なんか、それはやりすぎだ。キミに、夢中になってる。ちょっと待って」
「今はね……でも、ごはんの後なら、いいよ……僕も、裸で抱きしめられたい。セックスは、待って。やり方がわからないから」
「それがいい。ボクも知らない。キスも今初めてした」

「今？　初めて？」
「ボクにキスしたいって言ったの、ミエルが初めての人だよ」
「う、嘘だ…」
「本当だ。キスしたいは、誰も言わない。なんでキスしてくれないのって怒る人はいた。したいと思わないからって言うと、嫌いって思われる。全然わからない」
「あ……ああ……そうだ……レモーノは好きだって言われても、キスしたいだとは思わないんだもんね……キスがしたいがなかったんだった……」
「そっか……好きはそういう意味もあったんだ……難しすぎる……好きとキスしたいは、考え方が全然違うよ」 

　でも、誰がレモーノに怒ったんだろう。彼に好きだと言って、キスをするはずの仲になっただけの人がいるのだろうか。

「これは、僕が嫌だからやめてほしいことなんだけど……でも……」
「何？　それはとても大切」
「僕は、レモーノに、他の人とキスやセックスしてほしくない。だから、他の人とするなら、僕とはもうしないで」
「キスとセックスをするのは、ミエルだけがいい？　結婚みたいな約束？」 

　そんな露骨な結婚があってたまるか。
　レモーノに他意がないのはわかるが、僕は言い淀んでしまった。

「違った？」
「結婚の約束みたいな話だけど、その約束はプロポーズって言って、もっと違う話し方をする。でも難しいから、結婚みたいな約束で合ってる」
「プロポーズは知っている。メルバンカでは、男性が女性に指輪を贈る。ボクもミエルに……あっ、大丈夫。約束する。ボクがキスをするのはミエルだけ。キスもセックスも、同じ家に住むのも、ミエルだけがいい。ボクもミエルが他の人とキスするの見たくない」
「いいの？　僕だけで……」
「ミエルとの約束は、誰よりも大切。キミも……よかった。ボクの約束のネックレスをしてくれている。でも、ミエルも、ボクでいいの？　他の人が寂しいではない？」
「うん。レモーノだけだよ。僕がこんなに安心して、自分のお願いを話せるのは、レモーノだけ」 

　そういえば、レモーノが言葉を覚えると約束したときに、僕に渡したネックレスは、婚約指輪に近いものだった。この家に住むと決まったときも、僕の苦しみを話せる相手になると言う約束で、ネックレスを正式に受け取った。それなのに僕は何を疑っていたのだろうと、痛む胸を撫でる。

「んふふ、ミエルと同じことがいっぱい増えた。ボクはとても幸せな人だ」「相変わらず、お気楽だね」
「幸せも同じにする。約束する」
「ありがとう。僕もレモーノを幸せにするよ」
「それは簡単。ミエルは笑顔になるか、僕にキスすればいい。これからはいつでもしていい。キスは気持ちがいい、だからみんなする」
「僕にはキスしていいか聞いてからにしてね。僕は、気持ちいいけど、キスしてるところを人に見られるのは、恥ずかしいと感じるから」
「わかった。約束する」
「もう一回言うけど、絶対に他の人とキスしないで」
「人が見てるときはキスしない、ミエルは恥ずかしいから。他の人とキスしない、ミエルが悲しむから。他には？」
「ふふ、それだけ。この家でなら、いつでもしていいよ」
「じゃあ、夕食前にもう一回だけする。今日は初めてのキスのごはんにする」
「どういうごはん、それ」

　本当にレモーノは、シンプルな人間だ。彼が僕を見つめ返す澄んだ眼差しに、遠い国の雪深い森の静けさを想った。極寒の地で生き残るためにする、レモーノとのハグは、どんな心地がするだろう。

　”初めてのキスのごはん”は、今までになく美味しかった。“ミエルのありがとうのごはん”で、僕が注文したメニューと同じ、焼いたチキンに、野菜の盛り合わせが乗っていただけなのに。

続く

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