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【更新中】第六章 熱い紅茶はいらない(2)

初めてお越しの方は、下記の記事をご一読ください。



 夕食を終え、お風呂に入ると、僕は枕と目覚まし時計を持って、レモーノの部屋へと向かった。

「ミエルのその服、寝るための服? いつも着ないね?」
「そう、パジャマ」
「それは?」
「目覚まし時計。朝に音が鳴って、目が覚める」
「便利だね」

 そう言うレモーノは、外で見る服と全く変わらない装いだった。夜に寝る習慣がないというのは、本当らしい。

「パジャマと目覚まし時計の話で思い出したけど、レモーノは、ここでも夜に寝ないの?」
「短く寝ている。ミエルに朝ごはんを作ってから、カフェの仕事に行くまで寝る。仕事が終わって、キミが猫のベンチに来る時間まで、もう一度寝る。そして夜のごはんを作って、朝まで勉強や掃除をしている。眠くなったら寝るときもある」
「体保つの、それ……えっと、楽できてる?」
「二つの故郷よりは、とても楽な生き方。僕は、一人であまり長く眠れない」

 レモーノの隣に腰掛けると、猛烈に不安な気持ちになる。さっきの話では、彼の生まれた国の男性は皆、短命で、三十歳にも満たずに亡くなるようだった。生きる方法を確立しろと言われたが、レモーノを失ったら、僕は生きていける気がしない。

「ミエル……どうしたの……?」
「ごめん、君の生まれた国の人が、長く生きない話を思い出して……」
「ボクもすぐ死ぬんじゃないかって? どうだろう……もう何回も死にかけたけど、ボクは生きてるから……もしかしたら、ボクはもう幽霊かもしれない」
「幽霊なんて言葉まで覚えて。でも、レモーノはさわれるし、あたたかいよ」

 とは言いつつも、僕はレモーノの太腿もさわってみる。ついでに、自分の手もさわって、夢でないことを確認した。手を差し伸べられたので、自分の手を重ねると、もっとさわれと言わんばかりに、僕の手を自分の頬に重ねた。
 初めて彼の頬にふれたときよりもずっと柔らかく、温かかった。僕の家に住んだことで、少しは楽な生活になっただろうか。

「ミエルの今の悲しみを、減らすことはできない。死ぬときは、必ず来る。でも、なんだろう、話をすると、考えることは変わる。だから、ボクの生まれた国の話をする。人の声を聞くと、よく眠れる」

 頬の動きと声を出す微かな振動まで伝わってきて、レモーノが話している最中なのに、僕は彼の口元や首まで撫でた。彼は僕が何をしても咎めないし、平然と話し続ける。生まれた国の話をすると聞こえてきたところで、さすがに顔をさわるのはやめた。

「生まれた国の人には、二つの死に方があった。ネックレスも関係がある」
「二つの死に方?」
「帰ってこない人の死と、同じ心を失った人の死」
「帰ってこない人は、わかる。寒さか、熊に襲われたか、森を抜けてしまったか、かな。でも、同じ心を失った人の死って…?」

 レモーノの目がふっと伏せられて、彼の手は約束のネックレスに伸びる。彼の親指は、木工のペンダントトップを撫でた。

「今のミエル、いや、ボクに似ている人。生きる仲間の中でも、特別な人がずっと帰ってこないとき、とても悲しむ人がいる。勿論、みんな悲しいけど、その人は、本当に、何もできなくなる。ごはんは食べない、水は飲まない、話はしない。みんな生きようって言うけど、多分、一緒に死ぬの約束の方が大切だった。彼らは同じ心の二人だった」
「同じ心の二人……そういえば、レモーノは、よく僕と喜びや苦しみが同じにしたいって、言ってくれたね。特別なことなの? ネックレスに約束する?」
「そう。この国の生き方にはない、不思議なことだね。今のボクならわかる、きっと、この国の人みたいに、同じ心の二人は、一緒に恋をしていた」

「生まれた国は、とても少ない国だから、心が同じになることがあるのだと思う。言葉がいらなくなる。一緒にいたい、喜びと苦しみを同じにしたい、明日も生きていてほしい、ただ、それだけしか思わない。生きる仲間と違うのは、二人は死ぬときも同じにしようの約束。自分の知らない時間を生きないでほしい」

「このネックレスは、ボクが誰なのかがわかるためのネックレスだ。これは……文字なのかな……ボクが借りていた神様の名前。命のネックレスで、わかる?」
「わかる」
「大人になって、特別な人ができたとき、二人で命のネックレスを交換することができる。相手の神様の名前を、隣に焼く。生まれた国の、結婚式みたいなことをする。同じ心の二人は、ネックレスを交換して、喜びも苦しみも、死ぬときも同じにしようと約束する。ボクも三回だけ見た」

 レモーノは、過酷な環境で狩猟生活を送ると、苦痛を感じにくくなると話していた。彼らにとって、他の人と苦楽を同じように感じることは、僕にとっての共感以上に、かなり強く共有する感覚なのだろう。
 同じ気持ちを感じたい。死ぬときも同じにしたい。自分の知らない時間を過ごさないでほしい。なんて強い気持ちだろう。

「僕は命のネックレスを持っていない。だから、同じ心の約束を少し変えた?」
「はい。わかる?」
「難しいけど……えっと、特別な二人の約束なのはわかった。命のネックレスを交換して、喜びと苦しみを同じように感じる約束をする。死ぬときも同じにする、強い約束」
「そう。ボクもそれくらいしか知らない」


「でも、この国は、物や時間が多いから、気持ちが多くなる。喜びも色々、苦しみも色々だ。“嬉しい”と“楽しい”は違う。“悲しい”と“寂しい”は違う。好きにも、たくさんの気持ちがあるね。ボクには、生きている喜びとか食べ物がある喜び、怪我や病気になる苦しみしかなかった。悪いことではない。生きる条件が違うと、心の形も変わるという話。今のボクにも、言葉が伝わって嬉しい気持ちや、ミエルと会えなくて寂しい気持ちはある。でも、また会いたいの気持ちは、生まれた国とスフィリットでは、どうしても強さが違う。友達のことを抱きしめて、明日もみんなで生きよう、死んでしまうからみんなと離れたらダメだとは、スフィリットでは言わないね」
「大丈夫、わかるよ。ここでは、そこまで言わない。一人になっても死なない」

 それでずっと、レモーノは“ミエルの心は難しい”と言っていたのか。生き延びる喜びか、明日も生きられるかわからない苦しみしかないような条件で世界を見ている人に、明日も生きられることはほぼ当然で、何をしても死なない国で生きている人の世界を、同じように見るのは難しいだろう。

「物も時間もない場所で、“同じ心でいたい”は、相手がいるだけでいい。相手の命を感じるだけでいい。寒いとき、苦しいときには傍にいて、温かいにしたい。それが、ものすごく幸せだ」

「だから、逆に、同じ心の人の命を失った人は、数日後には帰ってこない人になる。死ぬ仲間になる約束もあるけど、相手のいない世界で、生きられない。相手の存在、相手が生きていることが、自分の生きる幸せだから。一人で死ぬのは、本当に怖い。だから、ボクらは、子供のとき、神様から名前を借りて、命のネックレスに焼き付ける。このネックレスは、寒い森の中でも温かかった。大人になって、自分で自分に名前をつけると、自分一人で生きて死ぬことになる。それが怖くて、つらいことだから、ボクらは同じ歳の人と死ぬ仲間になる。簡単だけど、とても強い約束。色んな人と約束すると、一人が死んだときにたくさん死なないといけないから、二人だけでする」
「死ぬ仲間……運命を共にしたいって感じなのかな……」
「うんめい?」
「自分はどう生きるのか、自分の人生に何が起こるのかという意味」
「似てる。でも、どう生きるのかは自分で決めること、何が起こるのかはわからないことだから……一緒に生きたいから生きる、一緒に死にたいから死ぬだけ」

 ドライなのかウェットなのか、いまいち掴みづらい感覚である。

 相手の死を追うほどの恋をする人は、ここでも、稀だが、存在はするだろう。短命で過酷な環境では、人を想う心は凝縮されて、レモーノたちのようになるのも頷ける。本当に選択肢がなかったら、明日二人が生きているかもわからないとなったら、僕だって何もせず、何も言わずに、ほんの一瞬でも寄り添っていたい。
 同じ国に住んでいる人、謂わば下限値が、“生きる仲間”だと言う。一人離れたら、寒さに飲まれて死んでしまう。“同じ心の人”は、この国の恋愛や結婚よりも、遥かに強い間柄なのかもしれない。
 それでも、相手の存在が生きる幸せそのものだなんて、リスクが高すぎると感じてしまうのは、やはり生きる幸せに、他にも選択肢があると思うからなのだろう。ただ一人を選ばなくても、誰も選ぶこと、選ばれることなく孤独になっても、すぐには死なないことを知っているから、選り好みの中で暮らせるのだろう。

「ずっと生きるは、ボクもミエルもできない。でも、ミエルが死ぬとき、ボクはミエルの死ぬ仲間になる。ボクが死んでも、ミエルはもっと長く生きたらいいと思うけど」
「僕も、レモーノの死ぬ仲間になるよ。その勇気が持てるか、自信はないけど、僕も君と同じがいい。僕も、レモーノがいない時間を生きたくない。レモーノと離れて死にたくない。だから、レモーノは僕より長く生きて」
「そう? 嬉しいな。ミエルはボクを知るのことが増えたがわかる。考えることも変わった」

 いつかレモーノと抱き合って永遠に眠る自分を思うと、不思議なぬくもりが胸に灯った。

 そろそろ僕は寝た方がいいと、レモーノはベッドから立ち上がる。服の裾を引っ張り、隣に横たわってほしいと返せば、快諾された。普段着のままの彼に、僕はお揃いのパジャマでも買おうか考える。

「あのさ、レモーノ」
「ん?」
「生まれた国の“おやすみ”を教えてよ。寝る前に言うこと」
「それは大切。キミがさっき言った“あいしてる”と、同じだ」
「調べたの?」
「調べてはいない」

 

《私たちの命が長く続くことを祈ります》
「それがおやすみ? 結構長いんだね。《祈る》だっけ?」
《私たちの命》
《私は……命……》
《私たちの命が長く続く》
《私たち……長い命の……動く》
「もう少し。《私たちの命が長く続くことを祈ります》」
《私たちの命が長く続くといいなあ》
「そう。この国の言葉にすると、ボクらの命が長く続くことを祈る、と言ってる」

 切実な想いだ。 

「“愛してる”は、命が続いてほしいって意味だと、君は考えてる?」
「長く生きていてほしいや、明日も会いたいだと思う。違った?」
「合ってるけど……純粋だなって……」

「“あいしてる”は、“好き”みたいに沢山の意味がある?」
「そう、言う人やその相手によって意味が変わる。今のだと、色んな人に思うかなって……でも、愛は元々、色んな人に抱くか……」


「ミエルの聞きたい“あいしてる”は、ボクがキミだけに感じることがほしい?」
「……ほしい」
「あ、また“レモーノは嫌でしょ”のときの顔した。どうして……ちょっと待って。ボクは伝えようとしている」

 

「ボクはまた説明が足りなかった。寝る前の言葉は、二つある」
「他にもあるの?」
「そう。長い挨拶は、同じ心の二人が使う。だから、“あいしてる”と同じと言った。他の生きる仲間は、《良い夢を》という。これは、前に教えたね。でも、説明はしなかった」

「《良い夢を》が短いのは、子供が覚えやすい。よく眠れますように、という意味。ボクらは、寒いから集まって眠るけど、並び方がある。同じ心の二人、子供にはよくわからない。長い挨拶してる人の間で寝たらダメ、ならわかる。長い挨拶と短い挨拶がある、使う相手が違う、それはわかる?」
「……わかる」 

 

「“あいしてる”、長く生きていてほしい、また会いたいを、色んな人に思う。この国なら、それができる。色んな人も沢山いる。思う時間も沢山ある。生まれた国は、もっと少ない。人も、時間も。まず、自分が生きるので大変。仕事が失敗しないも大変。みんな自分を生きないと、仕事が失敗すると、生きる仲間の数が半分になることもある」

 

「ボクは、一度仕事を失敗して……ボクが、仕事をできなくて、生きる仲間を一人失った。家に、大人が一人と、子供が二人しかいない夜があった。大人と言っても、今の僕より若い。その夜は、風が強い、雪が多いの日だった。ボクらは、暖炉の火を守る仕事に失敗した。火が消えてしまうと、煙突から煙が出ない。煙が出ないと、家の場所がわからなくなる。みんなが帰ってこないのは、暖炉の火が消えたせいもあった」

 

「火を点けることができるのは、大人だけ。その人は、ボクともう一人の子を布団に包んで、一人で火を点ける作業をした。一人で仕事をして、死んでしまった。火は暖かいけど、死の息を吐く。だから、点ける人の傍で、風を送る人が必要だった。火を点けるのも、二人だったら、煙突の雪も掃除していたら、もっと早く火と煙が戻った。人も帰ってきた。あの人は、死ななかった」

 

「ボクの、愚かさで、仕事が、できないで、人が死んだ。ボクも死ぬと思った。仕事は、正確に、素早く覚えないと、一人の愚かさで、人が死んでしまう。全部の能力が大切。全員の命が大切。喧嘩をする意味もない。生きることに全力でないと、死んでしまう。そんなこと、この国では、なかなかないね。寝る前の言葉、おはようの言葉、また会おうの言葉、無事に帰ってきてほしいの言葉、言いたいのに言えなくなるなんて日は、すぐに来ない。言う相手もだけど、言える自分も、早く死なない。一人死んだって、人はたくさんいる」
「ごめん、軽率なこと言った」
「? なぜミエルは謝る? けいそつなこと? まだ続きがある」

 謝罪が軽率だった。

「そんな国だから、生きる仲間や同じ心の人は、この国の人にはわからない感じだと思う。愚かと怠けで、人が死ぬ。自分たちは、簡単に痛いや怖いを感じなくなる。相手の嫌がることをし続けたら、汚い水をかけられて、寒い場所に逆さまに吊るされる。一人になったら、雪と獣しかない森で、悲しい、寂しいと泣くこともできない。獣のお肉をとって生きるか、自分がお肉になるか。真面目に仕事をして、家に戻って、生きる仲間と同じ心の人の命を感じて、朝になるまで休む。それが生まれた国の、普通の人生だった。同じ心の人と、デートをする時間も場所もない。デートもキスも、ボクは知らなかった。それが何も不思議なことではない、普通だという感覚。説明もできない、合う言葉がない」

  どこかにある国の、普通の話なのだろう。僕には普通でもなんでもないが。僕の知る“一人は寂しい”という気持ちも、凍て付いた森の中で、迫り来る死の気配との戦いの中で感じるものとは、雲泥の差だ。
 了承も取らずにレモーノの手を握ると、彼の手は異様に熱かった。淡々とした声でわからなかったが、自分のことを話すと生じる、その熱だけは、僕も感じたことのあるものだった。

「同じ心の二人になる、正しい方法は、ボクも知らない。大人の秘密だった。本当に、ネックレスを交換するだけなのか、一緒にいたいだけだったのか、わからない。ボクは他の国の色んな生き方を知ったから、もう、誰かと同じ心の二人になることはできない。メルバンカで、恋愛と結婚は知ったけど、男性と女性がするが国のルールだった。この国では、そういうルールなくて、色んな人とする。恋愛できる時間も沢山ある。ボクとキミは違うことが多いだね。ボクは恋愛がない人だし、キミは恋愛がたくさんで自由の人」
「そう……だね……」
「でも、ボクはミエルと一緒にいたい。一緒に恋がしたい。話すのが楽しい。ミエルもそう言ってくれるから、ボクはミエルと、恋ができると思ってる。でも、ミエルとボクのことだから、二人だけの気持ちにしてもいい。同じ心になるではない、恋をするではない、“あいしてる”ではない、結婚するではない、ミエルとレモーノだけの気持ち」

 レモーノはそう言って、ふっと笑みを浮かべた。他の力も抜いたのか、ベッドが小さく軋んだ。彼の瞳が下に逸れたのを見て、視線の先を追うと、中途半端に繋いでいた手を見ているようだった。僕が彼の指の間に指を差し込んでいくと、途中から意図に気付いて、指を広げた。

「ボクは、キミの心がずっと泣いてる理由も、いつか知りたい。でも、ミエルの心は難しい。話すのも、嫌だと思う。ボクが言葉を覚えて、ミエルが安心しないとできない。時間がかかる」

 癖で謝りかけたのを、手を軽く握り返されて止められる。

「でも、ミエルの心が難しくて、わかるまでの時間が長くても、ボクは嬉しい。ここは、すぐにできなくても大丈夫の国。ミエルと話すことが沢山ある、とても幸せなことだ。キミがボクに長く生きてほしいなら、ボクも長く生きると思う。ボクはミエルには長く生きて、たくさんのことをしてほしい。ボクが一緒にいることで、ミエルのできることが増えてほしい、ミエルのやりたいことをできたらいいと思うから、ボクはキミの傍にいる。ミエルはいつでも、なんでも、ボクにお願いするといい。ボクにもできないことはある」
「ありがとう。ありがとね、レモーノ」

  すぐにできなくても大丈夫の国。レモーノの生まれた国に比べたら、自分の不出来で人が亡くなる環境に比べたら、ここは本当に安寧の中で生きられる国だろう。僕は、そんな国で、みんなと同じペースでできないことを散々責められてきたのに、どうしてレモーノは僕を責めないのだろう。嬉しいのに、やはり心の奥底では、彼が怖い。

「ミエルの聞きたい“あいしてる”の話に戻っていい?」
「うん」
「“あいしてる”は、まだわからない。でも、ボクの生き方や考え方は、ミエルにしか話してない。ミエルほど、話したいと思う人もいなかった。ミエルが他の人に話さないでほしい、自分だけが嬉しいなら、キミだけが知ってるのままにする。ミエルのお願いが叶うのは、ボクも幸せなことだ」

 

「それと、ボクはミエルがどうして自分だけの心にしてほしいか、少しわかるから、安心してほしい。キミは……好きや嫌いで、周りの人に感じることに、差が出るのが、好きじゃない。多分、ミエルは、他の人と、“好き”の気持ちで、何か怖い思いをした。好きの後の嫌いは、ずっと嫌いより怖いと言った」
「覚えてたんだ……」
「大切なこと。この国は、人を大切にしない。大切にしなくても、死なないから。大切にしたくても、人が多すぎる。みんなを大切にするのは、難しい。大切にしたい人と、どうでもいい人が出てくる。その差が怖くなるの、ボクもわかる」
「レモーノも、人が怖いという気持ちになったの? この国に来てから、僕と出会うまで、少し時間があったね」
「ミエルの怖いとは、与えると受け取るのように、違うかもしれない」

 

「この国は、好きがたくさんであるほど、幸せのように考える。それはボクも、いいことだと思う。ずっといるとわからないだろうけど、本当に物と時間がたくさんだから、気持ちの種類もたくさんになる」

 

「でも、“好き”を色んなときに使うことの反対は、“好き”から色んな気持ちを考えることになる。そのせいで、“好き”の意味が同じにならない。キスしたいではないけど、好きと思うことはあるね? 猫が好き、トマトジュースが好き、本が好き。好きな猫は撫でたい、好きなトマトジュースはよく飲みたい、好きな本は長い時間読みたい」
「確かに……僕の、君と一緒に住むのは幸せで、君に恋するのは幸せではないって気持ちで、君は悩んでたね……」
「そう。レモーノが好きと言う意味。気持ち。ミエルがキスしたいの好き、ボクが恋を知らないだったから、よかった。ミエルがキスしたくないの好き、ボクが好きはキスしたいだと思ったら? ボクを好きと言うミエルに、ボクがキスをしたら? ボクは、逆さまに吊るされて、汚い水をかけられる。ボクを好きと言ったのに、どうしてキスは嫌なの? キスしたいの“好き”じゃない? わからないよ……」


「だから、好きとたくさん言う人を、ボクはあまり好きじゃなかった。この国の人は、簡単に言う。色んな人に言う。それなのに、したいこと、したくないことは言わない。ボクは怖い。ミエルの気持ちだって、何度も間違えた」

 もしかして、僕がごめんと謝る度に、レモーノは逆さ吊りにされた日の苦しみを思い出していたのだろうか。一緒に住むと決めるのを躊躇っていたのも、僕がしたくないと思ってることを、理解する力もないまま、僕にしてしまう事態が怖かったからだろうか。

「ミエルの幸せは、多分、この国の幸せとちょっと違った。色々とかたくさんよりも、自分だけがいい。自分だけの気持ち。ボクもその方が嬉しい」
「我が儘だよね……恵まれてるのに……」
「またキミはミエルが嫌いって言ってる?」
「言ってる…」
「どうして? ボクは、ミエルの宝物に、レモーノがあったら、幸せだと思うし、ボクはミエルへの気持ちと他の人の気持ちは、全然違うから、多分ミエルも嬉しい……ボクらは幸せの形が、同じ……うーん、言い過ぎだな……またボクは間違えた?」
「間違えてない! 間違えてないよ……」

 

「レモーノの幸せは?」
「ボクの幸せは、ミエルの命が長く続くこと。ミエルの声、ミエルの笑顔、ミエルと話す時間、ミエルが生きているこの世界は宝物。だからボクは、ミエルだけで幸せを感じられる。森を出たら死ぬと思ってたのに、ミエルと出会って、初めての心を感じた。同じ心になれる人と出会うって、多分こういうことだと……いや、違う……ボクは何度も間違えたから、ミエルを追いかけるのに夢中になってるだけかも……」
「ち、違わないよ! わからないだけだって、色々なことが。まだ、同じ心になる、は、僕もわからない。僕と君は、生き方が違った。でも、レモーノは間違ってない。僕らの幸せの形は、同じ。僕と君の二人でいることや、相手をとても大切だと思うことだよ」
「ミエルも同じ?」
「同じ。レモーノは、僕の宝物……僕だけの宝物……にしたい……」 

 そう言っても、僕が言ったのでは、浅ましい言葉に聞こえるのは、なぜだろう。自分が嫌いだからだろうか。人を大切にしない国の人間だからだろうか。
 レモーノのように、何の疑いもなく、何の躊躇いもなく、相手だけで幸せを感じられると言い切ることなんて、僕にはできない。そんなことを言って、思い違いだったらどうしよう。全身全霊を尽くした相手に裏切られたら、どう生きていけばいい。それが僕の本音であり、この国に生まれることで築かれる習慣だ。

「話し始めたときより、もっと悲しい話になってしまった。猫の話をしよう。ミエルは、猫が好きだね?」

 そんなことはなかったが、レモーノのことだ。僕のこの鬱屈とした混乱を見抜いているのだろう。僕が口を開いても、雰囲気を明るくするのは難しいので、彼の判断に身を委ねてしまう。
 レモーノは寄り掛かって抱きついても、街に溢れるカップルのように、肩を抱いてくることはない。それが寂しくもあるが、彼の人生に恋愛が存在しなかったことも表しているようで、彼もこのままでいい気がした。

「メルバンカでは、猫は人に幸せを運ぶ生き物だという話がある。猫をとても大切にする。この国に来て、初めてした仕事も、猫の世話だった。家に人がいないとき、猫の世話をするのが、高いお金をもらえる仕事になる。誰もができる仕事ではなくて、人の紹介と猫の許可が必要。猫の世話の仕事があって、すぐにここには住めなかった。ボクは、メルバンカでは少し名を知られていて、とても偉い人の猫を預かっていた。十匹も飼ってる」
「え? ここに住んで、大丈夫だったの?」
「うん。ボクはこの国に、長くいるつもりがなかったから、一年の約束だった。半分のとき、ミエルと出会った」

 そういえば、ヨセフがメルバンカでは、猫の方が人より偉いと話してくれたことがあった。猫に慕われて、仕事に誠実なレモーノは、相当腕を買われたことだろう。道理で、流浪の生活にしては、肉付きもよく、清潔感もあり、衣類を着替えることもできたわけだ。

「猫たちはきっと、ミエルのとこまでレモーノを連れてきた。森を出る原因の、大きくて毛深い猫も、いつだってボクを食べられた。でも、食べなかった。『ご主人』の家には、毛の短い猫がいた。猫は、豚泥棒のボクの前に立って、『ご主人』に威嚇した。豚泥棒が許されたのは、この猫のおかげ。ボクは、あの猫にも、毛のない子供の猫と思われていた」

「公園の猫がボクの仕事の邪魔をしなかったら、ミエルの忘れ物に気付かなかった。お肉の秤から、猫が全然動かない。お肉を見せても、猫は見ない。いつも邪魔だけど、あの日は、特に邪魔だった。猫とお肉の重さを一緒に測って、計算してもらおうと、ジルバノを探した。ボクは計算が得意ではない。そしたら、ミエルが本を置いていってしまった」

「ミエルがボクに声をかけたときも、猫がたくさんいた。なぜだろうと思った。でも、ミエルは猫が好きと話したとき、ボクは、猫の仕事を思い出した。猫は人と暮らして、幸せとお肉を交換する。ボクの人生が変わるとき、いつも近くに猫がいた」

「ミエルが猫を好きで、一緒に住みたいなら、一緒に住んだらいい。さっきは、ミエルが猫とばかりいたら寂しいと言って、ごめん。ボクは、今まで猫にたくさんのお肉を与えたから、きっとミエルにもたくさんの幸せを運んでくれる」

 突然可愛いことを言われて、僕は感情がままならなくなってしまった。自分なんかより、と言いかけた口は摘んで伸ばした。レモーノは時折ものすごくネガティブだ。

「あっ!」
「何、」
「さっきごはんの後にキスをしようと言った。ボクはミエルの肌にさわりたかった。お肉で思い出した……」
「そ、そうだけど、タイミング……言い方……思い出し方……」
「はずかしいの顔をしている。ボクは間違えた?」
「そうだよ! 真面目な話をしてるときに、キスの話するから!」
「キスの話は、真面目な話ではない?」
「う……それは……だって……」
「ああ、キスはとても焦ってしまうから、確かに安心の話ではないね。ごめん、安心の話のときに、キミに隠れたいと思わせた」
「ううん、むしろありがとう……冷静で……僕のこと、よく観察してて……」


「あのさ、本当に……レモーノは、本当に、傍にいるのが、一緒に生きるのが、僕だけでいいの? キスも、セックスも、恋も?」
「うん、ボクはとても幸せ」
「僕以外の人としたら、僕はすごく嫌だ。本当に嫌だからね? 君が他の人と話すのさえ、僕はちょっと嫌なんだ。でも、話すのは、仕事に必要だから……それに、レモーノにも自由が……」
「ミエルが他の人と話さないでほしいなら、ボクは話さないよ。人と話さずにできる仕事もある。野菜や動物を育てたり、料理をしたり、掃除をしたりは、人と話す必要ない。仕事を受けるとお金をもらうは、人と話さないとできない。お金の話だけは、する必要がある。ミエルが代わってくれる? でも、ミエルは、他の人とお金の話をするのも好きではないね?」
「それは、うん、好きではない……」
「キミが望むなら、ボクは何だってするよ。ミエルも、ボクといることが、幸せになってほしいから。それに、ボクの命は、もうずっとキミのものだよ」 

 レモーノはそう言って、僕の首にかかったネックレスを撫でた。過酷な人生を強いられながらも、“同じ心の人”に命を捧げる姿が、死ぬ仲間になる気持ちが、まるで見てきたかのように想像がついた。

「レモーノのこのネックレスの約束、もしかして、僕に君の命を捧げたの? いつでも死を望んでいいって言ったよね?」
「わかった?」
「そんな……なぜ、僕に……」

 

「初めて会った時、キミは眼鏡をしていなかった。覚えている? すぐにこうしてしまった」
「うん」
「でも、一瞬見えた、キミの目は、とても美しかった。ボクに、何も感じていない目だった。少し怖がっていたけど、なんという? 臭いや汚いの気持ち。ボクがどういう人か、大体の人は、服でわかる。汚い労働者だ」

 僕は動揺していただけだが、確かに、レモーノを汚いや臭いとは思わなかった。彼の仕草が気になったのは、もっと後のことだし、野営生活にしてはいつも綺麗だと思っていた。立ち居振る舞いも、毅然としていて、僕の無理に刷り込まれたマナーよりも、断然美しかった。
 それに、侮蔑の眼差しを向けられるつらさは、僕もよく知っている。僕とレモーノは、一目見たときに、相手を良くも悪くも思わなかったのだ。

「ミエルが体調を悪くして、人を怖いと感じていたとき、ボクはボクの命をキミに渡すことを決めた。最初は、キミを苦しめた罪の気持ちだった。でも、それを説明することもできなかった。だから、ちゃんと謝れるように、言葉を覚えていた」
「レモーノが、僕といるのが苦しそうなのは、罪の気持ちがあるから?」

 

「罪の気持ち以外に、たくさんの気持ちがあるから。罪の気持ち以外は、逆の気持ち、幸せの気持ちだ。ボクはキミに話しかけない方がいいと思うのに、キミと話したいと思う。キミの傍にいたいと思う。キミが人と話すのが嫌になった理由の人を、ボクはとても怒っている。でも、ボクとキミが、今、こうしていられることに、全ての過去が必要だね? 一つでもなかったら、今は存在しない」


「前に、サラもボクに聞いた。ミエルをあいしているのかと。ボクは、それよりも前から、今まで、今も、ミエルへの気持ちが何なのか、考えている。ボクもミエルも、“好き”の言葉が苦手だ。ミエルから、ボクにキスをしたい気持ちを聞いた後、ミエルとキスをするか、ボクはたくさん考えた」
「うん、でも、答えが出ない? 初めての気持ちだ。ミエルにしか感じないから、合う言葉がない。キスやセックスがしたいではない。ミエルが嫌なことをしてしまったら怖い。でも、ミエルを一人にして、危ないにも、怖いにもなってほしくない」
「ミエルもボクの心が読めるようになった?」


「どうしてボクはミエルの傍で、ミエルの好きな生き物で、生まれられなかったのだろう。それが、一番大きな気持ちと思う」
「レモーノ……」
「だから、ボクのこれからの命は、心は、キミのものになったらいいと思った。キミだけにしてほしいというお願いが、ボクはとても嬉しいんだ……本当に、キミと二人だけならいいのにって……なんでもない……ああ、ごめん……またボクは夢中になってしまった……」

 不思議な感情だ。ただの人間としての愛は、レモーノが抱いている気持ちの方なのだろうか。相手が生きていてくれれば幸せだ。傍にいてさえくれれば幸せだ。苦しんでいるなら温もりを分け与えたい。美しさも、賢さも、強さも、富も、名声も必要なく。

 本当に?

 「ボクのことがいらない、傍にいると苦しいと思ったら、そのネックレスを返すといい。そしたら、ボクはいつでもここを去る」
「返さないよ! あの……嫌じゃなくて……僕は何を言えばいいのか、何をすればいいのか、わからないんだ……嫌じゃない……焦る……僕はどうしたらいいの……」
「ミエルは、ミエルの思うままに、存在すればいい。キミはボクに何を言っても、何をしても、何もしなくてもいい。キミが傍にいてくれるだけで、本当に幸せなんだ。ミエルと出会えて、こうして一緒にいられる。ボクはとても幸せな人だ」
「う……うう……」
「はずかしいの顔だね。その顔も……」
「レモーノ! ちょっと黙って!」
「はい」

 レモーノには散々醜態を見せてきたが、見せてきたせいか、見られていると思うだけで恥ずかしい。不躾だが、柔らかな彼の胸に、湯気が出そうなほどに火照る顔を押し付けた。

「なんだか、僕は僕が羨ましくなってきた……」
「うらやましい?」
「レモーノの心の中にいるミエルになりたいなって。“羨ましい”は、他の人が自分より幸せそうに見えて、その幸せを奪って、自分のものにしたいと思うこと」
「……そう」
「わかる?」

 レモーノの心の中のミエルは、きっと心も体も美しいのだろう。

「ボクの心の中にいるミエルは、痛いも怖いもなくて、ダメや嫌いと言われることもない。キミは本を読むのも、同じ理由で好きだと言った」
「覚えてたんだ」
「でも、ボクの心の外にいるミエルは、痛いも怖いも苦しいもたくさんあるけど、ボクの心の中にいる以外のこと、全部できる。安心の中にいる幸せと、怖いでも外にいる幸せは、違う。行き来できたら、きっと一番いい。家で本を読むのも、外に出かけるのも、キミはどっちもしていいように」 

 どっちもしていい。
 当然と言えば、当然の話かもしれない。しかし、それ故に、あえて言葉にして相手に伝える人はいない。それに、外にいるのは勿論、家の中にいても、死が間近にあったレモーノだからこそ、その言葉には重みがあった。
 外で寝起きしていた頃のレモーノの目に映る月明かりは、僕の目に映る月と同じものだろうか。彼の薄い色の目は、穏やかに月を見上げていた。

「僕は、馬鹿だったよ、レモーノ」
「ん?」
「君の言葉を、一つだって、拒むんじゃなかった。ごめんね。頑張って、伝えようとしてくれたのに。君が拒んでもいいと言ってくれるのも、わかってる。でも、全部受け取りたかったとも、素直に喜びたかったとも、思うんだよ」
「……そう。こうできたらよかったなあで、悲しい?」

  

「月を見て、僕のようだと思った君の気持ちを、こうして並んで、月を眺めても、僕は、同じものを感じられない。それが、堪らなく、悲しいんだ」

 

「月を見て、どう感じるのって聞いた、あの日の君は、もう会えない。勿論、君が言葉を覚えてくれてよかった。でも、あの日の君を、拒んじゃ、いけなかったな……それに今も、君の言葉を受け取るのが下手だ……」

 

「酷いこと、言ってもいい?」
「えっ……何?」
「ボクは、あの日の言葉を喜ばれるより、今こうして悲しいと話してくれることが、嬉しいよ。やっと、キミの本当の言葉を聞けるようになった」

 思わずぽかんと口を開けてしまう。

「ふふ、そうだね、ふふっ」
「冗談は言ってないよ」
「ん、ふふ、だって、君は本当にもう……良い人だね……レモーノは、良い人だ……」
「なぜ笑うのかわからないけど、ミエルが笑ってくれるならいいか。嫌な気持ちではない?」
「うん、嬉しいの気持ち」

  

「レモーノの胸に、頭を乗せてもいい?」
「いいよ。もっと平らになる」
「ありがとう」 

 ベッドの上に寝そべると、僕はレモーノのシャツのボタンを外して、前をはだけさせた。彼の反応を見ることもせずに、僕は露わになった胸に頭を乗せる。

「この音は、僕のもの。僕の宝物」
「レモーノの命の音」
「うん。君の心の中に行きたいとき、僕はこれをしたい」
「いいね、それはいい考えだ。ボクは静かにする。命の音は、小さいから」

 レモーノの鼓動は、あまり小さくなくて、秒針よりも刻みが倍くらい速かった。胸を撫でて、彼の名前を呼ぶと、胸が上下する動きも大きくなる。彼の心の中にいるのも、それはそれで大変そうだなあと思った。

「レモーノ」
「ん?」
「生きて、僕のところまで歩いてきてくれて、ありがとう、本当にありがとう……」
「……うん」
「僕は君を愛してる。君も僕も長く生きて、ずっと傍にいてほしい。死んでも、一緒にいたい。君の命も心も、僕の宝物」
「キミがそう望むなら」

  

「眠くなっちゃうな……こうしてると……ふふ、レモーノは逆に焦るんだろうけど……」
「わかる? 焦ってるレモーノの命は、うるさいだね。眠いなら、もう寝よう。ミエルは、片付けとボクの話で、疲れている」
「うん……えっと長い方のおやすみ、言ってほしい……」
「勿論。ミエル、ボクはこれからも、一緒の部屋で寝たい。寝る前の挨拶をして、離れるのは寂しい」
「そうしようか……そしたら、レモーノと一緒にいる時間が増える……ベッド減らして……書斎を作って……本が沢山置ける……」
「ミエルの幸せが沢山になる、ボクの幸せも」

 

《楽をして、長く生きてください、ミエル、私の命を捧げた人》
《私の命……レモーノ……》 

 レモーノの寝る前の挨拶は、最初に聞いた音と違っていたし、ボクは一つしか覚えられなかったが、すっと眠りに落ちてしまった。遠い異国のその言葉は、まるで眠りの魔法のようだった。

 続く

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