見出し画像

黒い引き金(短編小説)

 二〇××年 八月 一五日。

「彩音~。でてこーい」
 ボリュームのある黒髪にパーマのかかった借り上げマッシュヘアー。睫毛ギリギリで切り揃えられた重い前髪。

 灰色の縁をした丸メガネの奥には、二重と涙袋が優しくも可愛らしい印象を与えている。四つ年上の幼馴染、水野恭平は部屋の扉をノックする。

「黙れ、恭平ッ!」
 不機嫌な音と共に、分厚い参考書が部屋の扉に投げつけられる。

 ナチュラルストレートの黒髪を振り乱し、威嚇する猫の様に荒い息を繰り返す少女、小日向彩音はキレイな歯通しを擦り合わせる。

 大きな黒目と涙袋が印象的なアイドルの様な瞳は見る影もない。白目は充血して血走っていた。

 高校二年にして引き籠りとなった彩音。

 早朝六時。
 心地よい春の日差しを遮る遮光カーテンにより、陽の光が一筋も入ることはなく、人工的な明かりがつくこともない部屋にチリ埃が舞う。

 床には散乱した楽譜。倒れた譜面台。破り捨てられた参考書。グランドピアノの鍵盤の隙間に突き刺さったハサミ。
 ホワイトカントリー調のデスクに置いてあったと思しき筆記用具達は腕で一払いされ、色々なものが床に散らばっていた。

 薔薇柄の女性らしいクッションはカッターナイフで八つ裂きにされ、ベッドの布団も床に落とされている。足の踏み場もない。

 見るも無残な部屋の中で一つだけキレイな状態で守られているものがあった。ストレート形のラベンダー色のハードケースに守られたバイオリンと弓。それらだけは、何もないベッドの中心に置かれていた。

「彩音……」
 扉の外にいた恭平は溜息交じりに彩音を呼ぶ。その声には頼りなさと悔しさが滲み出ていた。

 二〇××年 六月 三日――。


 調音パネルが貼り付けられた十帖のフローリングの部屋。よく手入れのされたグランドピアノが堂々と佇み、必要最低限の筆記用具だけが置かれたサイドテーブルと全身ミラー。生徒のために置かれた白の譜面台。背もたれ付きの洋風チェアーには彩音が座っている。


「ストップ! スト~プッ!」

 グランドピアノを弾いていた講師の谷本たにもと静しず香かは、両手を大きく叩く。


 釣り目でキツイ印象を与える五十代と思しき女性の目元に険しさが増す。


 防音設計されたレッスン室にてヴァイオリンレッスンを受けていた彩音は、顔からバイオリンを下げる。


 涙袋が印象的なアイドルのように大きな瞳が目の前の指導者を見る。その瞳は不安げに揺れていた。


 彩音が今レッスンを受けている曲目、Csárdás(チャルダッシュ).


 出だしは伸びやかな低音が身体に絡み合うほどに色気がある音色――になるはずだが、彩音の出す音は色香のいの字もない。


「すみません」

 彩音は言い訳をしたい気持ちを隠し、素直に謝る。


「謝ったところでいい音色はだせない! 今日の貴方は可笑しい。音程もリズムも悪い。なにより、表現がなってないわ」

 静香は失望したように胸元辺りまであるウェーブのかかった黒髪を揺らし、彩音を否定する。


「もっと優雅に。しなやかに。美しく。音程は数ミリのズレも聞き逃さないで。耳で弾きなさい。それから、演奏している時の表情にも気をつけて。眉間に皺が寄り過ぎている。どうしてそんなに怒りや焦りを表すの。ヴァイオリニストは演奏時の見た目も美しくなくてはいけないの。貴方は役者。いい?」

 静香は捲くし立てるように言うと、ピアノ椅子に着席する。

 それは、レッスン再開の合図。


 彩音はヴァイオリンを構える。

 次は本調子に戻れることを祈りながら――。


**


「はぁ~」


 自室に入るなり扉に背を預け項垂れる彩音は、力が抜けたようにズルズルと膝を折る。


「……どうして?」


 嘆くように呟き、左手で左耳を包む。

 上手くいかなかった理由は、左耳に感じた違和感が大きいのだろう。


「そうだ!」


 教材がすっぽり入るレッスンバックからスマホを取り出し、水野恭平に電話をかける。


 彩音にとって兄的存在の恭平は、四つ年上の幼馴染で昔はよく遊んでいた。恭平が一人暮らしのために引っ越し、今はもっぱらスマホのやり取りとなっている。


「おぉ。彩音、どうした? 彩音から電話かけてくるなんて珍しいな」


「どうもしない。ただ、声を聞きたくなっただけ」


 そう答える彩音は耳が聞こえることに胸を撫で下ろし、スマホを右手に持ち変えて左耳に当てた。


「ど、どうした? 熱でもあるのか?」


「ぁ、ごめん。恭平なんて言った? 聞き取りづらい。電波?」


 高校に上がってからは、すっかり甘えてこなくなった彩音の思わぬ返答に対し、恭平の声に困惑の色が伺える。だが、その声がクリアに彩音の耳へ届くことはなかった。


「電波なら――MAXだけど? えぇーなんで? 俺か彩音のどっちかのスマホが故障してるとか?」


 恭平の声は深海に落ちていくほどくぐもった音として、彩音の耳に届く。

 彩音は慌ててスマホを右手に持ちかえ、右耳に当てた。


「ごめん。もう一回言ってみて」

「いや、だから、どっちかのスマホ故障かな? って話だよ」

「ッ⁉」

 今度はハッキリとクリアに聞こえる恭平の声。

 彩音は瞠目して息をつまらせる。


(スマホの故障なんかじゃない。故障しているのは、私の左耳⁉)


 自分の置かれている状況を瞬時に理解した彩音は血の気を失う。


「彩音? 聞こえてるか? 大丈夫か?」


「ぁ、ごめん。今度は聞える。明日携帯ショップ行ってくる」

 彩音は慌てて取り繕う。


「あぁ。そうだな。で、電話の要件って何だったんだ? 寂しくなった? 失恋でもしたか?」


「要がないと電話しちゃいけないわけ? 恭平はいつからそんなケチな男になってしまったの? 失恋なんてしてない。恋愛もしてない。こっちはヴァイオリンで満腹なのよ。知ってるでしょ?」


「ケチ呼ばわりするなよ。機嫌悪りぃな。別にいつでも電話していいから。まぁ、失恋してなくて何よりだな」


「機嫌悪い時くらい誰にでもあるでしょう。人間だもの。じゃぁーね。授業で忙しいのにすみませんね」


「お前はいつから文学少女になったんだよ。相田みつをかよ。別に、実技授業とかじゃねーから大丈夫。じゃぁ、また」

 苦笑いする恭平はそう言って電話を切るように促す。


「うん」

 彩音はそう頷き電話の通話ボタンをオフにする。

 電話を切った彩音は重苦しい溜息をつき、両膝を抱えた。


(左耳……)

 勢いよく立ち上がる彩音はヴァイオリンケースを抱え、地下にある防音室へと駆けてゆく。

 その際、母親から声をかけられたが、彩音の耳に届くことはなかった。

 彩音は防音室に入るなりヴァイオリンを取り出し、本日使った教材を譜面台に乗せる。鉄パイプで作られた譜面立ては振動により微かに揺れる。


(信じない。ありえないッ)

 現実を否定するように強く瞼を閉じた彩音は深く息を吐く。


 G《ゲー》(ソ)線に弓をのせ、ダウン。

 開放弦の低音の太くストレートな音が部屋に響く。


 隣の弦、D《デー》線(レ)線。G線よりも高い音。バイオリンは左から進むことにより音色が高くなってゆく。


 A《アー》線。D《デー》線よりも高い音が出るはずだが、ほんの少し音が低い。数字で表すならば、マイナス三ほどのこと。


 耳が良い彩音なら気がつくはずだが、何事もないように調弦を終了させ、音階と曲練習に入る。


「……いつも通り、弾けてるよね?」

 その質問に答えてくれる者はいない。


 彩音は録音していた演奏、Csárdás.を確認する。


「ピッチがズレてる。ううん。開放弦からおかしい。調弦ができてない?」

 自分の音を再認識した彩音はアップライトピアノの椅子に腰を下ろす。


 一つ大きな息を吐く。

 音に一点集中させるため、瞼を閉じ、バイオリンの弦を一本ずつ、右人差し指ではじいてゆく。


 マイナス二のG線とD線。マイナス三のA線。プラス四のE線。指でG《ゲー》~E《エー》の線をポロロン! と一気に弾く。音は調和せず、耳と心に違和感を残して消えた。


「……ズレてる。焦ってたから分からなかった? いや、まさか。こんな初歩的なことをッ」


 彩音は微かに振るえる声で独り言を重ねながら、完璧な調弦に整える。


 全ての音が分からないわけじゃない。ただ、感情の波と普段の感覚の違いにより、音程の聞き分けが鈍くなっているだけなのだ。

「丁寧に。落ち着いて。大丈夫」


 自分を落ち着かせるように大きく息を吐いた彩音は、ロングトーンでビブラートをかけずにきらきら星を弾く。


 ビブラートをかけなければ誤魔化しきれない本来の音が分かるからだ。もちろん、ビブラートは表現方法の一種であり、ピッチを誤魔化すためのものではない。


(左耳、いつもと聴こえ方が少し違うけど聞こえている。もっと、もっと音を聞かなきゃ)


 彩音は音に縋りつくように左耳を楽器に近づける。


 顎当てに頬が乗ってしまうことによって、基礎姿勢が崩れることなどお構いなしだ。


 キラキラ星を弾き終えた彩音は、ビブラートをつけて同じ曲を弾く。


 どちらも録音している。慎重に。丁寧に。

 一つ一つの音を拾っては微調整を加え、音を紡ぎ合わせてゆく。


 次第に耳の聞こえがクリアになってゆき、彩音本来の音を取り戻していった。


「耳、戻った?」

 自分自身を疑うような顔をする彩音はホッと息を吐く。


「疲れが溜まってたのかな?」

 自身を納得させるように呟き、小さく頷く。


 楽器専用のクリーニングクロスの布を使い、バイオリンの弓に飛び散ったであろう松ヤニの粉や手汗などを、優しく拭い取ってから毛を緩ませる。


 弓の毛をはった状態で収納していると、乾燥や重力の関係によって弓の木が折れてしまうことがある。それを心配して毛を緩めすぎると、毛自体がパラパラと零れ下りて落ち武者の髪の毛状態とかす。弓一つ収納するだけでも繊細なのだ。


 バイオリンも同様に、クリーニングクロスでボディや顎当てを拭く。そのクロスより三まわりほど小さい布を使い、弦を一本一本拭って手入れをする。


 愛ある奏者には、楽器も愛で返してくれる。楽器と愛し合える関係性になりなさいね。


 それは、幼少期に習っていたバイオリン講師の言葉だった。恩師の元を離れた今でも、彩音はその言葉を大切にし、守っていた。


「本当は駄目だけど、今日は少し休もう。耳が使い物にならなくなったら大変」

 バイオリンケースを背負った彩音は防音室を後にした。


 彩音の想いとは裏腹に、この日から一週間後。彩音の左耳は音を失った。

***


六月十日。


「うぉ~ら、彩音! いつまで引き籠ってんだ」

「⁉」

「ほら、立て! 行くぞ」

 彩音の部屋の鍵をコインで開けた恭平は、ベッドで項垂れていた彩音の腕を引っ張って起こす。


「ちょ、離せ! どこつれてくき? 誰にも会いたくないし、バイオリンもしないって言ってるでしょ」


「俺の大学」

「何しにッ?」


「そんなに人間に会いたくないなら、ディタスに会わせてやるよ」

「はぁ?」

 眉間に皺を寄せる彩音をさして気に留める様子もなく、恭平は彩音の手首を引っ張りズンズン歩き続けた。


  †


「彩音、これが俺達のチームで担当しているディタスだ」

「⁉」

 学校の運動場に近い屋外の馬場に一人取り残されていた彩音の前に、馬の手綱を引いた恭平が戻ってくる。


 握られている手綱に繋がれているのは、良質な黒毛が美しい大きな馬、ディタスが繋がれていた。


「ぉ、大きい……」


「何? 珍しくビビってんの? ディタスは大人しい子だよ。こっちが悪戯をしなければ、こちらを傷つけない」

 恭平はそう言いながら、畳二畳分ほどの距離を取り、自分の声が聞き取りやすいように彩音の右側に立つ。


「び、ビビってない」


「そう? なら触ってみろよ。可愛いぞ。ぁ、近づくときはゆっくりな」

 肩を竦める恭平はディタスの顔を撫でる。


「……」

 彩音は無言で一歩踏み出す。


「彩音。不安丸出しの顔で近づくと危ないぞ。ディタスに不安がうつる。もっと舞台でバイオリンを弾くときみたいに、堂々と女王様してろよ」


「女王様ってなんなのよ」


「そんな顔してっと蹴られるぞ。スマ~イル。ぁ、真正面と真後ろには立つなよ」

 恭平は子供のようにムスッとする彩音に苦笑いする。


「あんたがイラつかせてるんでしょ」

「そりゃ悪いな。黙っとくよ」

 その言葉通り、恭平は口を噤む。


 瞼を瞑る彩音は右手を胸におき、長い息を一つ吐く。次に瞼を開けて胸をはる。舞台に立つ前にする彩音のルーティーンだ。


 慣れ親しんだ彩音の姿を見ていた恭平の口端は上がる。


 彩音は柔らかな笑顔を浮かべ、堂々とディタスに近寄っていった。

「ディタス、こんにちは」

「手の甲を鼻に近づけて匂いを嗅がせて。ディタスが落ち着いたら喉首を撫でて」

「ディタス、初めまして。私は彩音。よろしくね」
 と、指示通り動く。
 彩音の匂いを馴染ませたディタスは大人しく彩音に撫でられる。
 その様子を見守っていた恭平は、「乗ってみるか?」と問う。

「ぇ⁉」
 反射的に手を引っ込めた彩音は手を庇うように胸に当てる。

「なに? 手を守るようにして。バイオリン辞めるんじゃなかったっけ?」

「や、辞めるわよ。手を守るのは癖よ」
「そうか。じゃぁ、準備するから」
 と、ディタスの手綱を引いて元来た道を戻る。

「誰も乗るなんて言ってないんだけど」
 そんな言葉を気に留める様子もなく、恭平はディタスと共に戻ってくる。その左手にはヘルメットと足踏みを持っていた。

「恭平。私、乗りたいなんて一言も言ってないんだけど」

「怪我したくなくば俺の言うこと聞いて」

「はぁ? あんたが私の言うことを聞きなさいよッ」
 彩音の苛立つ声に反応するようにディタスが大きく首を振る。

「どぉどぉど~。ディタス、大丈夫。怖くない。大丈夫だ」
 怯えるように硬直する彩音に対し、恭平は手慣れた様子でディタスを落ち着かせる。

「ディタスに蹴られたくなければ、静かに俺のいうこと聞くがいい」

「な、何キャラ? 何様? 意味不明」
 小声で反論する彩音にヘルメットを投げる。

「被って。隙間なくな」
「私馬になんて乗ったことない」

「大丈夫。俺が引く。乗馬体験と思え。ディタスの左肩横に立って」
「私に指図しないで」
 彩音はそう言いながらも恭平の指示通りに動く。

「はいはい。女王様。左手で手綱と馬の鬣たてがみを掴んだら、左足で鐙あぶみをかける。その後、右足で――」

「ストップ」
「?」

「一気に言わないで。こっちは何も分からないのよ。あんたは鬼なの⁉」
「嗚呼。ばぶちゃんだもんな」

「はぁ⁉」
 ヒートアップしそうな彩音を落ち着けるように、恭平は顎でディタスを差す。彩音は慌てて口つぐむ。

 その後、彩音は恭平の指示の元、乗馬体験をするのだった――。


「どうだった?」

「悪くはなかった。ディタスはあんたより可愛いし頭がいいわ」

「明日も来るか?」
 恭平は素直じゃない彩音に微苦笑しつつ、そう案を出す。

「そんな簡単に他の人間いれていいの?」

「いいよ。だけど、学校内で起きることに口出しと口外は困る」

「OK」
 そんな会話を交わしながら二人は帰路をつく。

 その後、幾度となくディタスと戯れて仲良くなった彩音には笑顔が増えた。

 あの一件があるまでは――。


**

 二〇××年 八月 一五日。

「彩音、俺今から大学だから。また来る」

「二度とくんなッ」
 恭平を拒絶するように物が扉に投げつけられる。恭平は落胆しながら階段を下りた。

「恭平君」
 彩音の母である紗さ枝えが萎れて歩く恭平に優しく声をかける。

「紗枝さん」

「毎日ありがとう」

「いえ。むしろすみません。こんなことになってしまって」
 と、自分の不甲斐なさを噛み締めるように唇を噛み締める。

「ディタスのことはどうしようもないんでしょ?」

「はい。今の俺の力では何も。すみません」

「そう。あと一週間ね」

「それまでにまた会わせてやりたいんですけど」

「そうね」
 階段下で辛辣に話す二人は、彩音の部屋をしばし見つめ続けるのだった。 

三日前。


「恭平、今日もディタスの所に行ってもいいでしょ?」

 早朝から恭平に電話する彩音の声は明るい。それに反し、恭平の空気は重い。


「……恭平?」

 不穏を読み解く彩音は不安げに名を呼ぶ。


「彩音。もう大学にはこないほうがいい」

「なに? 教授にでも怒られたの?」


「いや、そうじゃない。彩音は何も悪くない。兎に角、一週間は来るな」

 さして訳を話すこともなく電話を切る恭平に、彩音の眉尻が引くつく。


「なんなのあいつ! 意味不明なんですけどッ」

 彩音は感情任せに家を飛び出し、恭平の大学へと向かった。


「恭平!」

 乗馬でディタスと戯れていた恭平を見つけた彩音が名を呼ぶ。


「⁉ なんでッ?」


「あんたが意味不明だからでしょ。あんたがココに何度もつれてきといて、今更来るなって。分けわかんない。なんでダメなの? 私なんか悪いことした?」

 瞠目する恭平に大股で近づき話す。抑えた声量にディタスへの配慮があった。


「彩音は何も悪くない」

「じゃぁ、なんで?」


「水野。解剖実習の時間だ。ディタスを引き渡してくれ」

「か、解剖実験⁉」

「先輩ッ」

 言い合いに割って入る声の方に二人が視線をやる。


「ぁ、まじかったか。フォローよろしく。取り合えず時間だから」

 ゴム手袋とマスクをした白衣姿の青年は金髪を風に靡かせ、恭平から手綱を半ば奪い取る。


「ちょっと、貴方。ディタスをどこにつれていくんですか⁉」

 焦る彩音は青年の左腕を両腕で掴む。


「なに? 君? どこの子? 取り合えず、時間がないから。詳しい話は水野に」


「ディタス、行こう。ごめんな」

 青年は慈悲を浮かべ、手綱を引いて戻る。

 追いかけようとする彩音を後ろから羽交い絞めするように止める。


「恭平、離せッ! あんたもなんで黙ってるのよ!」


「彩音、仕方ないんだよ。どぉしようもねーんだよ」

 嘆く声は震えている。彩音が見上げると恭平は涙を溢していた。


「ディタスは? ねぇ、ディタスはどうなるのよ」

「それは……」


「殺されるの?」

「聞こえが悪い。健康な馬の筋肉の解剖をすることによって、多くの馬の命を救える」


「だからディタスを殺すって⁉ 最低ッ! あんたもココも嫌い! 絶交よッ」

 彩音は恭平を思いっきり突き飛ばし、青年の元を追いかけようとするも、恭平に捕まってそれは叶わなかった。


 彩音は何度も”嫌い””最低”と繰り返し、恭平は謝り続けた。


 そしてこの日ディタスは、空を駆け抜けた――。


***

十月十日。


「彩音、出てこい」

「――」


「ディタスが戻ってきたぞ」

「ディタスッ⁉」

 恭平の言葉に彩音は勢いよく扉を開ける。


「開けて」

 彩音は突き渡された弓ケースから弓を取り出す。そこには、美しい黒毛が張られた弓が一本入っていた。


「……ディタス?」


「あぁ。ディタスの尻尾を譲ってもらった。メスの毛は排尿時にボロボロになるが、オスは弓の毛に使える。って前に聞かされてたから」


「ッ……ふっ……く」

 込み上げる涙を堪える彩音は、弓を抱きしめるようにその場に崩れ落ちる。


「悔しいか?」

「あんたは悔しくないの? ディタスは殺された」


「そう思うなら、伝えればいい」

「何を? どうやって?」


「それ」

 恭平は顎で弓ケースを差す。


「ベートーヴェンは完全難聴でも音楽の世界で生き続けた」

 と、右手に持っていたパンフレットを突きつける。


「今年のバイオリン関東大会。そこでお前はディタスと共に舞台に立ち、一位を取る。関東大会だ。女王様には楽勝だろ?」


「ふざけないで。そんな簡単な世界じゃない。一日休めば一週間休んだも同等。もう三ヵ月以上もバイオリンに触ってなかった」


「それで?」

「それで? って」

「言い訳なんてお前らしくないぞ。まぁ、お前の復活を期待してるから。じゃぁーな」

 恭平はパンフレットを落とすと、彩音の元を去る。


 一人残された彩音はディタスの黒毛が張られた弓をジッと見つめる。


 部屋に戻る彩音はケースからバイオリンを取り出し、ディタスの弓で音を出す。コシがあり強い音が響く。彩音が現在持っている、繊細な音を得意としていたフランスの弓とは違う、新たな色だ。


「ディタス……」

 彩音は心を決めたように瞼を開く。その瞳には強い意志が宿っていた。


 三ヵ月後。

 舞台上の彩音は色々な悲しみや苦悩を肥やしに、輝きを増していた。


 ディタスの弓は舞台で目を引いた。


 出す音色は力強くて深みのあるものだった。


 彩音は女王の座に輝き、見事、復活を遂げたのだった――。



「彩音。ここだ」

 水野恭平は後をついて歩いていた彩音に手招きをする。

 

「うん。ありがとう」

 恭平の後をついて歩いていた綾音は恭平の右横に並んだ。

 恭平が彩音を連れてきたのは、ディタスのお墓だった。


 彩音はお墓の前で膝を折り、顔の前で両手を発症させて、まぶたを閉じる。


「ディタス。ありがとう。私、ディタスのおかげで、またバイオリンを弾けるようになったんだよ。私は、あなたと一緒に、世界を飛び回っていこうと思う。だから、これからもよろしくね。ディタス」

 彩音は、優しくも優しくも凛とした声でそう伝えた。まるで空にいるディタスが答えるかのように、彩音の頬を撫でるかのように優しい風が吹き抜けていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?