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対話と調停(表象)

 何かを作るときに、それを実行するための段取りを済ませると、加工する私と、加工されるものの対話が始まる。この対話はあまりに膨大で、頭の中で考えているだけでは、イメージも及ばなければ、対処することも叶わない。大きなものを作るほど、これらの対話の量は多くなる。ただある閾を越えると、急にこの対話が減るような気がする。ひとりでは作れなくなり、他者との協働となり、言語や理論での調停作業になってしまう。
 ただの調停作業は実に退屈で苛だたしい。言語や視覚でどんなに伝達を試みても一向に伝わってる気がしない。本当に私自身が実感した面白さや気持ち良さが伝達された実感がない。渾身のプレゼンや入念に繰り返した打合せによって表現、提示できたものと、自分の内に取り込んでいたはずのものの間の齟齬に苦しんでしまう。

 私自身の制作やデザインの動機や根拠には、制作過程、素材の製造過程に内在する、物語や技術といったものが影響していると自覚している。それははっきり言って、ほとんど目の前にある素材や完成品には表象されていないのではないか。そしてそれはなぜか。
 リチャード・セネットの『クラフツマン』の中に少しヒントがあるように思う。セネットはもの作りをする者(=クラフツマン)が技術を習得する過程では「暗黙知と認識の間に絶え間ない相互作用が起きている」と指摘している。この相互作用は、おそらく加工する私が加工されるものと対峙した時のあの対話、そのことである。
 あの対話には、対話の結果として理想形を成した時の高揚感のようなものを携えている。作る私と、作り上げられるものとの一致感。想定した通りに流れるようにことが進んでいくことそのものの高揚感と、想定外のリフレクションが見せてくれる新しい知識や感覚との出会いの高揚感。
 これらは「作る者」であるから体験できるものである。それが表象として他者に体験されることはない。私が感じている魅力とは「作る者」と「作る物」との対話の中に起きている現象やその流れそのもの、つまりは、そこに完成した時には、もうその姿を消しているのではないか。

 これをデザインを行う上での動機と根拠とするのはいささか自己中心的すぎるだろうか。しかしこの対話の応答の中に潜む魅力は、とても普遍的で確かな感覚なのではないか?

 あえて私はこの考えを表明しておきたい。それは表象として求められるものには、「作る者」の感覚は含まれることを求められないからだ。私は求められた物をただ提供する。その調停作業がうまくいくことを目指して。私の主張は一旦は私の趣味の一つになりさがっていても、表象のうちのどこかに、私の対話の記録をそこに残す。
 この記録に気づく人はいるだろうか。私は気づいて欲しい。対話の魅力に気づけば、他者も「作る者」に少しでも近づく。それは、物が作られていくその営みが、出来上がった表象に普遍的な価値を与えうると信じて。

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