見出し画像

現実適応力への期待と不安の葛藤、1975年の岸田秀「国家論」

1975年5月、28歳の三浦雅士(みうら・まさし、1946年12月17日~)編集長の月刊誌『現代思想』(青土社)6月号「増頁特集:言語 人間存在への新しい視点」(780円)が刊行された。
41歳の岸田秀(きしだ・しゅう、1933年12月25日~)「国家論個人心理から集団心理へ」を収めた。

1977年1月30日、岸田秀著『ものぐさ精神分析』(青土社、1,600円)が刊行された。
国家論」を再録した。

1982年6月10日、「中公文庫」、岸田秀著『ものぐさ精神分析』(中央公論社、460円)が刊行された。
青土社刊『ものぐさ精神分析』に四編を加えて構成した。
解説は49歳の伊丹十三(いたみ・じゅうぞう、1933年5月15日~1997年12月20日)だ。

1985年5月1日発行、『新刊展望』(日本出版販売)5月号(120円)が刊行された。
3月22日に実施された、51歳の岸田秀と36歳の橋本治(1948年3月25日~2019年1月29日)の対談「幻想と妄想」を収めた。

1996年1月18日、「中公文庫」、岸田秀著『ものぐさ精神分析』改版(中央公論社、880円)が刊行された。

同書の「国家論」より引用する(52~54頁)。

 人類が人類になったころについて、すなわち文化の起源についてどのような理論を立てようとも、実証も反証もできないので、その当否の規律は、現代科学の諸発見に矛盾しないこと、それ自体に論理的一貫性があること、広範なさまざまな種類の現象を体系的に説明できること、説得力があること、わかりやすいことなどのほかには求め得ない。わたしも、これらの規準に叶うよう努めてみよう。
 さて、この胎児化の結果、人類は滅亡の危機に直面したであろう。自活できるようになるまでこんなに長い期間保護してやらねばならないのだから、保護する側の負担はべらぼうに重い。単に期間が長いだけでなく、自分では何一つできないのだからその世話は大変である。その保護と世話は、いわゆる本能としての母性愛にもとづく行動によって可能な範囲をはるかに超えていた。子どもを育てるための親の負担の面だけを見ても、人類は、本能だけに頼っていたとすれば、とっくの昔に滅びていたであろう。
 しかし、問題は親の過重な負担だけではない。親がこの負担を引き受ければ、それですべてが解決するわけではない。無力・無能の状態で長い間親に保護されて過ごすという条件が、子どもの本能生活を根本的に変質させる。親の保護とは、いいかえれば現実との遮断である。現実のなかに放り出されれば死ぬほかはない子どもに、親に、作為された人工的世界を提供せざるを得ない。子どもの本能は、まずはじめに、現実と遮断された世界のなかで発動され、満足を知る。
 生まれたときの子どもは、感覚運動器官がきわめて未発達であるから、もちろん、現実と非現実、自己と他者の区別を知らない。したがって、親が提供してくれた人工的世界は、子ども自身にとっては、現実によっても他者によっても限定されない唯我独尊、全知全能の世界である。このような世界のなかで満足を知った子どもの本能は、現実からずれてしまう。本能とは、本来なら、現実への適応を保証するものである。動物は本能に従って行動し、それがそのまま個体保存、種族保存の目的につながっている。ところが、人間においては、本能に従うことは現実への不適応を意味する。つまり、現実への適応を保証するものとしての本能はこわれてしまった。人間の本能は、唯我独尊の幻想のなかで、自閉と全能の幻想のなかで空回りする。本来なら現実我を保存するはずの個体保存の本能は、全能の幻想我を保存する方向へずれる。種族保存の本能についても同じことが起こる。同じく胎児化の結果であるが、個体保存の本能の場合に、その本能の発現と、それの目的の遂行の手段たるべき感覚運動器官の発達とのあいだに時間的なずれがあるのと同じように、種族保存の本能の場合にも、性欲の発現と、生殖器官の成熟とのあいだに数年の時間的ずれがある。そのため、人間の性欲は、まず不能の性として出発する。そして、そのあいだに、異性の性器と結合し、生殖の目的に奉仕するというその本来の表現形式からずれてしまい、同じく幻想の世界のなかで無目的に空回りする。フロイドが幼児の性欲は多形倒錯的であると言ったのは、この意味においてである。倒錯の性とは、不能の性であり、幻想の世界に遊ぶ性である。
 そのうち、遅まきながら、感覚運動器官あるいは生殖器官が成熟したときには、すでに手おくれで、人間の個体保存あるいは種族保存の本能は、前述
のように本来の目的から遊離した方向へずれてしまっているから、ここで、何らかの打開策を講じなければ、人類は個体保存も種族保存もできず、不適応になって滅亡せざるを得なかったであろう。実際、人類のかなりの部分は、この難局を乗り越えることができず、滅亡したかもしれない。

2024年2月25日、「中公文庫」、岸田秀著『ものぐさ精神分析』増補新版(中央公論社、本体1,200円)が刊行された。
岸田秀橋本治の対談「幻想と妄想」を増補した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?