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「好き」の定義

あなたは「好き」という概念について考えてみたことがあるだろうか。ちなみに私は無かった。それくらいどうでもいいことだと言われてしまえばそれまでだけれども、それでは話が終わってしまうので、この度私は少し考えてみた。

まず「好き」とは「感情」なのか?改めて検討してみると、そうではないような気もする。喜怒哀楽という四字熟語に当てはめてみると、好き=プラスの感情が成立するのは分かる。しかし、だからといってその反対が成立しないとは限らない。「好き」に起因する怒りや哀しみも時にはあるかも知れない。

よく「好きの反対は無関心」と言われるように、そもそも無関心な人や事物に対して感情が動くということはあり得ない。喜怒哀楽が感情を指すものなら、「好き」とはその感情の更に奥深くにある何かを指すものではないだろうか。

私は心理学に造詣が深いわけではないが、この「好き」を「性質」と定義してみるとどうだろう。

性質とは「持って生まれた気質・本来備わっている特徴」といった意味を持つ言葉だそうだ。例えば自分の好きなものについて他の人に説明したい時、それを上手く言語化することができない状態に陥るといったケースでも、もしそれが論理や感情で処理できないものであるなら、何も不思議なことではないように思える。

かの有名なゲームクリエイターである小島秀夫氏は、自身のTwitterの説明欄に「僕の体の70%は映画でできている」と記載されている。小島監督が無類の映画好きの方であるということを知っていれば、その表現の真意も理解できるだろう。

「性質」を人間に当てはめた時、それは「人格」と言い換えることができる。つまり「好き」とは「その人そのもの」を表す要素であるという結論に私は達した。

その人の「好き」を否定する事、それは即ちその人という人間そのものを否定する事と同義である。決して「たかが趣味嗜好」と軽く考えてはいけない。少なくとも私は平気でそのような事をする人間と上手く付き合っていく自信は無い。

本来「好き」とは否定されるべきものでは無い。こんなことはそれこそ小学校で教わりそうなものだが、残念ながらそれが分からない大人も世の中には居るというのが現実だ。

気軽に他者の人生に介入できるようになった現代だからこそ、私たちは慎重にならなくてはならない。先入観や偏見を完全に捨て去ることが不可能である以上、何気無い発言が実は誰かを傷付けていることになりかねないのだから。






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