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目を閉じて光を待つ
太宰治の『待つ』と云う小説を読んだことがあるのを思い出した。
いま左耳のイヤホンでやくしまるえつこの声がカラオケを歌っている。一方で、右の耳が捉えているのは、レコードが鳴らすイルカの初めて聞く歌声だ。時々ノイズが入る。五百円だった。
壁の薄い団地に住んでいるので、音を抑えている。左右を比べると、やくしまるえつこの声が歌うカラオケが少し大きいので、スマホの音量を下げる。
私の姿勢は、布団の上であぐらをかいている状態。私は、弟と、アマチュア小説家と、家人に自作の小説を送った。送ったということは、読んでくれと云う意味でもない。かと言って、読んで欲しくない訳でもない。
その小説はあまりにも長大で、かつあまりにも古い記憶の中に筆致がある。ずいぶん古いメモの中から昨日見出したばかりだ。
昨晩から人物名から直していき、違和感がある文章をひとつずつ見ていった。
すると、なんとなくなのだが、彼、つまり昔の私が書こうとした文体が、その違和感の内に朧気に見えた気がしたのだ。すなわち私と彼のうちにある齟齬こそが、彼の文体だったかもしれない、と。
しかし、各人に私が送った小説は、今の私として直して書いたものだ。すると、恐らく、プロットも文体も今の私として変更するべき点もあったのかもしれない。そうでもないのかもしれない。
だからこうして私は、敷布団の上で、誰かの通信を待っている? やくしまるえつこはカラオケを歌うのをやめた。電池切れみたいだ。そうそう。小説は、六万字なので、今夜返信が来る見込みは皆無だ。
では、私は何を待っているのだろう。そういえば、たしか、太宰の小説もこのような内容だった気がする。もちろん、状況でなく『待つ』という意味に関して。
なぜ、私は待っているのだろうか。
ひとつだけ、私にはわかることがある。
私は懸想人に手紙を送ったばかりの心地がしているのだ。手紙はすぐには返ってこない。私は送った。そして待つ。私は待つことを楽しんでいる、ということ。
レコードも止まり、やくしまるえつこもカラオケをやめた。しじまだけが、私の狭い部屋にこもる。
『待つ』に雑踏の音が必要であったように、私にもまた、音楽が必要であったのかもしれない。しじまの酸素量はすこしうすい。
煙草を吸いに、バルコニーへ出た。今年は暖冬で、煙草をくゆらすのに最もやさしい冬だと思う。
煙草の煙をを吐く音。
音楽は要らない。部屋のしじまと、冬の夜空に包まれた静寂は異なる。
闇夜には、星と、街頭、夜景、それくらいのささやかな光だけがある。何もかもを凝視せしめるような光ではない。優しい光だ。私は冷たく優しい光に包まれて、自らの呼吸の音を聴き、灰を落とす。
二本目に火を灯す頃には、仄かな眠気が煙草の甘い香りに誘われて、やってくる。
今日が終わったことを確かめる時間だ。今日は目を閉じて、明日の光を待つこととしよう。
おやすみなさい。
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