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心と行動どちらが主人?

今日は心理学での「行動」について

「そんなつもりやなかったんや〜」
「悪いと思ってる、もう2度としまへんから〜」
「あんた謝るの何度めやと思ってるん(怒)?」
というのはよくある話で、身近なとこでは、禁煙中の夫がこっそり喫煙してるのを見つけてこんな感じのやり取りがあったのをつい最近、患者さんが話してくれた。

心理学では行動を評価するのかすまない気持ち、心を取るのか


心とは目の前に取り出してきて見たり、触ったりできない。

心理学の教科書には心とは「ヒトおよびその他の動物、つまり生体の複雑な行動を支える内的過程を指す」とある。

フムフム、内的な過程か。

その内的な過程のメカニズムをじゃあどうやって探るのかというと、どうも心理学では「行動」というものを重視している。

行動と一口にいってもいろんなレベルがある。

心理学では、基本的には筋の収縮や腺の分泌というところからはじまってたくさんのそれらのまとまって体制化したものを「行動」として捉え研究するとある。

なるほど、そもそも心とは、あるorないのかという根源的な問いはおいといて、見える、測れる、「行動」からいくわけですね。

じゃあ行動する生体にはみな心があるのだろうか?細菌やミミズにも心はある?

という問いには「両極性の定義」というのをおいている。
たとえば同じ刺激に同じ反応の単細胞レベルの生体よりも系統発生的にヒトに近いチンパンジーは同じ反応に複雑な反応を示し、どうもこのあたりは心があるなーとしている。
端と端のあいだにこっからは心あり、こっからはなさそうという非常にビミョーな定義だ。

だからしょうがないので心理学では様々な進化レベルの生体を研究対象としてるとある。

なるほどたしかに。

何となく日本のアニミズムや仏教やナウシカ的なところから山川草木みな心があるんやーといってしまいたくなるがつづける。

さて心理学の教科書になぜネズミや犬やハトがたくさんでてくるのかという初歩的な印象の理由が少し解けてきた。

心理学は行動というものを重視している。
そしてヒトという動物の行動を、他の動物の行動と比べたりして研究しながらどうもその行動の背後にあるらしい心というものを
系統発生的に研究しているといえるのだ。

つぎはその行動の分析について

最初に面白いのは膝蓋腱反射や乳児の原始反射、トゲウオの求愛行動から

感覚支配的行動というのを置いている

つまりは反射的な行動、上位中枢からの干渉ない、単純な、直接的な行動である。

(反対は上位中枢、大脳を介した間接的、認知的行動だ)

これはAという刺激にはBという反応という固定的な行動で、激しい環境の変化には柔軟な対応ができない行動だとしている。

(ちなみにヒトの握手したり微笑んだりの挨拶行動ももとは生得的な行動で、表情も反射ということらしい、出会った際眉が1/6あがるとか)

なので、つぎに習得的行動というのがくる。

そう、学習理論のパブロフの犬、条件づけ理論やスキナーのネズミやハト、オペラント条件づけだ。

生得的な単純な行動から
     習得的な行動への大ジャンプ

生得的な反応が、あらかじめつぎにどうなるかを予測して準備する反応へとかわったり
望ましい事態(報酬)のために自発的な行動を行なうようになる。

これで環境への適応範囲が広がる。

つまり厳しい環境に生き延びるために行動が変化しながら
心みたいなのが(大脳が大きくなるとか)あらわれてきた、そういうことだろうか。

実際の自然環境は、実験箱の中みたいにレバーを押したらすぐ餌がでるというような単純じゃなく、時間や空間的にもっとバラバラだ。 

生体はさらに適応範囲を拡大しようとする。

そうすると

ついに、記憶や記号、シンボル機能が生まれる!

ハンターの遅延反応テストでは一度あらわれて一定時間消えた信号を何かに置き換えて記憶することで、報酬を手にすることができるようになっている。
一般的に系統発生的に低い方から高い方にしたがって時間がながくなる。
ネズミは10秒たつと忘れるがヒトの子供はもっと長い。

経験や情報をイメージしたり、概念化したり、知識として内在化する機能、表象、シンボル機能。

ハトは言葉やはっきりしたイメージでなく、自分の動きを表象化して2種類の光の記憶を内的に保持する(ハトの遅延見本あわせ)

ティンクルポウによれば、サルはしっかりとイメージをたとえばバナナのイメージを表象化して保持しているという。

身振り、サイン、言語

ゲラーマンによればチンパンジーには原始的な概念をもっていて色や向きがかわっても同じものとみなす(たとえば三角形)等価反応をしめす。
もちろんヒトの2歳児も等価反応がありチンパンジーよりもっと抽象化の能力が高い。

もう少しつづく

ロシアの心理学者ルリヤは子供が言葉をみにつけることで、外からの命令がなくても自分で自分に命令をして正しい行動をとれる「個体内コミュニケーション、自己調整機能、つまり意志が生じるという。

言霊のイメージが湧くが、

心理学ではこの言語による「個体内コミュニケーション」を行動を制御、調整している心や意識に近いものと想定しているようだ。(行動主義心理学では意識なんて曖昧な概念は排除するらしいが)

他に心的モデル形成としてはバウアの「対象物の永続性」の概念がある。

ある発達段階からヒトは物体がたとえば衝立で隠されてもそのままありつづける、目の前にないものを想い浮かべることができるようになるのだ。(当たり前だがよくよく考えると凄いことだ)

さてついに「わたし」、自己意識のはなし

自己鏡像認知の研究。

魚や鳥は成立しないらしい。鏡にうつるのは敵になったりする。
犬、猫では匂いを嗅いだり探索しるが実在しないと気付き興味を失う。
チンパンジーは自己認知は成立する。
ヒトでもアルツハイマー病の場合、鏡映像に話しかけたりものを手渡そうとするらしい。

ヒト(チンパンジーも)は外界を認知している「わたし」を同時に認知している。

ここに他者の心を推量する「心の理論」(サリーとアンの課題や誤信念課題とよはれる研究である)が加わると心の輪郭がつかめててきた気がする。

ずいぶん行動からはじまって長くなってしまった。
総じては、脊髄、原始反射的な行動から高次大脳、表象機能、言語を介した複雑な行動まで、環境への適応や範囲の拡大を目指して、また自ら生み出した社会への適応の為の行動とセットになって系統発生的、個体発生的に変容していきた「心?意識?」という印象だ。


何となく引っかかるのは、行動の道具としての心なのか、行動が主人なのか、はたまた心が行動をコントロールしている、心が行動の主人なのかがだんだんわからなくなってきて、その相互作用についてはまた考えることとする。
今日はここまで。

(追記、野口整体というのがあり、そこではわざわざ活元運動、不随意運動を促すことで心身の健康を取り戻したりする。また気功でもそれに近い自動運動を取り入れる流派もあるが、わざわざ原始的な反応へ逆戻りさせることを意識するヒトというのは面白く変な生き物だ)

 


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