コソボの田舎でホームステイ。
はじめに|ヨーロッパ旅 回顧録
大学生時代、ヨーロッパに留学中の楽しみの1つはヨーロッパの国々を旅することだった。2016−2018年にヨーロッパ旅中に書いた日記を引っ張り出し、その当時のことを思い出しながら言葉と言葉の間を繋ぎ合わせた回顧録。
今更ながらアウトプット。
コソボという国を知っている方はどれくらいいるだろうか。名前を何となく聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれない。名前を知っている人でも、「コソボ」と聞いて思い浮かぶのは、旧ユーゴスラヴィアやコソボ紛争のイメージが大きいのではないだろうか。
オーストリアのウィーンから直行便で1時間半、更にコソボの首都プリシュティナ空港から車で2時間弱。私はPejaという街にいる。前日夜遅くに到着した私を友人のお母さんが玄関で待ってくれていて、「よく来たね」とギュッと抱きしめてくれた。綺麗にベッドメイキングされた2階の部屋に案内され、その日はそのまま寝てしまった。
朝起きて窓の外から眩しい光を感じる。その光や風を全身で感じたくて、階段を勢いよく降りて家の外に急ぐ。お家の前には草原のような野原のようなだだっ広い土地、舗装されていない砂利道がずっと続いている。
近いようで遠くにそびえたつ雪化粧が少し残った山々。
初夏の緑色の風。
日本から遠く離れたこの小さな町で私は故郷の山を思い出していた。存在も名前も知らなかった町。見える景色に何故か懐かしさを感じていた。
そんな山を目指して出発する。バイクで。
二人乗りバイクの後ろで鋭い風を受けながら、目にゴミが入らないようにしっかりつぶらなければならなかったけど、隙間から飛び込んでくる光に前を見ずにはいられなかった。
分厚い雲の間からオレンジ色の夕日が顔を出し、右にも左にも黄金の草原が現れた。なんて綺麗なんだろう...!お天気雨がキラキラ光っている。
そのたった数分の出来事はこの地の"神様"が私を向かい入れてくれた特別な時間だった。
6月のヨーロッパは特別だ。一番好きな季節かもしれない。雨と虹と緑色の風の季節。
コソボの友人宅は、6人家族。
2人の兄と1人の妹、私の友達とその両親。
1番上のお兄さんはドイツに住んでいて、2番目のお兄ちゃんはお父さんと同じ工事現場の会社で働いていた。
2番目のお兄ちゃんは、よく私と友人にコソボで有名な屋台のパイを買ってきてくれた。
味はシンプルに2種類。お肉かチーズか。
お肉が苦手な私は迷わずチーズにした。
パリパリなパイ生地の中に濃厚なホロホロしたチーズが入っている。
ちょっと油が多めで紙の袋は油で透明になっていた。
絶対に高カロリー。
ぶっきらぼうな感じのお兄ちゃんがわざわざ私のために車を出して買いに行ってくれたのが嬉しかった。
6月は私の誕生月。
「今日はキキの誕生日だから」って、お母さんがコソボの伝統料理『フリア』を作ってくれるという。特別な時に食べるごちそう。
「めちゃくちゃ美味しいよ!」とお兄ちゃんのフィアンセが教えてくれた。
かなり時間がかかるらしく、夕ご飯として食べるのに、まだ日が空の高い場所にある時間帯からお母さんは準備をし始めた。
庭にある手作りの窯でお父さんが何やら作業をしている、庭の隅に積んである薪はお父さんとお兄ちゃんが割ったもの。冬が来る前に大量に準備する。
盾のような銀色の大きな平べったい鍋?フライパン?に材料を入れてを窯で焼く。
生地を薄く引いて、クリームみたいなものを塗って広げ、焼いて、また生地を重ねていく。ミルフィーユみたい。この作業を永遠と繰り返していく。
どれくらいかかっただろう、何時間か経って、やっと出来上がった。
みんなでテーブルを囲んで、誕生日が近い友人と私のちょっとしたディナーパーティーになった。
お母さんが一生懸命に作ってくれた『フリア』は香ばしくて優しい素朴な味。
みんなにとっては、きっとこれが「おふくろの味」なのかな。
ほっこり、とても贅沢な一品を頂いた。
コソボで少し悲しいこともあった。
友人の地元のハンドボールの試合を見に行ったとき、アジア人に会ったのは初めてなんだろう、中学生くらいの男の子が私を見てビックリして、そのあとに目を引っ張ってつりあげるような仕草をされた。
アジア人を侮辱する行為。
海外には何度も行っているけど、そんなことされたのは人生で初めてだった。
ショックだったし、せっかくコソボのことを好きになっていたのに悲しかった。1つ意地悪なことをされたら、この国の全てが悪く見えてきそうになる。けど、隣にいた友人の妹が「気にしないで!無視して。キキの目はとても綺麗よ」と言ってくれて、どこにいっても意地悪な人もいれば、やさしい人もいるんだと思い返した。
コソボ紛争の話も色々聞いた。
家族が何人も亡くなってしまったこと、山を越えて逃げたこと、
子供たちは隣国のアルバニアにしばらく疎開していたこと、
お父さんはコソボ解放軍の兵士で今もそのことをとても誇りに思っている。町の役所に用事で行ったとき、友人のお父さんの名前を聞いた役所の人は、敬意の言葉をいくつか言って、お父さんによろしく。と言ったらしい。町の人にっては今もヒーローだ。
戦争が終わってからお父さんが暫く帰ってこなかったときは、もう死んでしまったのかもしれないと思ったという。
戦争が終わって、またPejaの町に家族みんなが集まって、お父さんを中心に家を建てた。とても可愛らしいピンクの壁の家。
友人の家族は大家族で、お父さんもお母さんも兄弟が10人以上いる。
親戚に会いに色々な家族の家に連れて行ってもらい、ざらに30人以上会った。
お金持ちの家族(警察官とか)もいれば、ごく普通の家族、おじいちゃん1人で暮らしている家族。色々な家族と家があった。
日本人、というかアジア人に会ったのも私が初めてなのではないだろうか。みんなじっーと私を見つめて、「髪が黒くてまっすぐでキレイね」とか「日本はとても進んでいる国なんでしょう?」とか褒めてくれていたらしい。(友人に通訳してもらった)
紛争が終わって18年(2017年当時)。18年って意外とついこの間。
まだまだ戦争の記憶が刻み込まれているなと感じた瞬間が何度もあった。悲しみや怒りが残っているけど、前に進んでいると思う。
忘れてはいけない過去、外国人の私に悲しいことも含めて色々話してくれたことが有難かった。
電車で前の席に座っている人が電話で話し始めたとき、友人が「あ、この人セルビア人だ」とちょっと嫌な顔で小声で私に耳打ちしてきた。
戦争1つとっても、経験したことは人それぞれだし、友人家族の戦争体験談はとても悲惨なものだ。「もう昔のことだし、この人は直接関係ないよ、仲良くしようよ」なんて本人にはとてもじゃないが言えない。
私には理解したくても、到底理解出来ない感情だと思う。
でも電話が終わった後に、そのセルビア人の子が「あなたどこから来たの?とても可愛いわね」と英語で笑顔で話しかけてきた時は嬉しかった。その瞬間この人はただの見知らぬセルビア人ではなく、優しい気さくな女の子として私の記憶に残るのだ。
コソボの人口は約9割がアルバニア人。コソボ内にはアルバニアの国旗がそこら中にあるし、友人家族も自分たちをコソボ人とは言わずアルバニア人だという。
コソボの中でもセルビアの国境に近い地域、友人家族の住んでいる山間部。首都のプリシュティナ、と地域や人によっても考え方は様々だと思う。
そんな彼らのルーツ、アルバニアにも車で連れて行ってもらった。コソボは内陸国で海がないから、夏はよくアルバニアの海に行くらしい。アルバニアは海が透明で綺麗で、食べ物も割と美味しかった。
私にとってコソボの想い出は特別。
縁があって、この国に来ることが出来て、現地の人の生活も体験することが出来てとても貴重な経験だった。
自然が美しいコソボ。手つかずな感じの山や野原がとてつもなく美しかった。壮大に広がる緑と咲き誇る花々とは対照的に、コソボ内戦で亡くなった人たちのお墓がそこら中にあったのが印象的。
友人のお母さんは、「今家族が健康に生きていることが嬉しい」と言っていた。私も友人家族が健康な日々を過ごせますようにと願う。
2017.06.20
ーーー後書き memoーーー
ずっと温めていたコソボ滞在の日記note。
まさに学生の時だったからこそ出来ていた旅。
文章が稚拙なところもあるけれどその時だからこそ感じた感情をありのままに書きました。
当時の私のiphone(多分6s?)では表現出来ていないけど、本当に美しい山々だった。
バルカンの国々をいつか周遊してみたい!
そして2023年10月。イスラエルとパレスチナ情勢が急激に悪化しています。毎日SNSやニュースで悲惨の状況を見るたびに心が痛いです。中東情勢はかなり複雑で私ももう一度勉強しなおさなければと思っているところです。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
また次回も頑張って投稿していきますので応援よろしくお願いします🌼
現在フランス在住ということもありYoutube動画も投稿したいと思っています。
是非チャンネル登録、いいね、コメントお待ちしております。
▼最新のパリVlogはこちらから
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?