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映画感想『幾春かけて老いゆかん』

映画『幾春かけて老いゆかん 歌人馬場あき子の日々』を観て。


⚫︎きっかけ

ミニシアターHPで目的の映画の上映予定を検索中、ふと気になったのがきっかけ。

リンク先の公式HPでまず目に入った「歌を詠み能を愛して八十余年」という言葉に、日本の伝統芸能への造詣を深めながら長い年月を過ごしてきた方がどのような方なのか、どんな日常を過ごしておられるのか興味をそそられたこと、
また、能に元々関心があって何か知られるかなと思ったことから。

前日の予定が遅くまで会った割に(自分にとっては)上映開始が早かったので、まずは無事に観られたこと自体が幸せ…

⚫︎感想

どんなお方なのか?を主眼としての鑑賞。

普段の姿しか見せられないと言いながら、その普段の姿がエネルギッシュで好奇心に満ちた様子でおられるのが印象的。

はじめのシーン、短歌を選出中の姿は、1枚1枚の葉書を選り分けていくそのスピードは速く、批評は鋭く、ベテラン歌人の熟練の才を感じる。
他、随所に散らばる、知識深く精力的な文化人としてのお姿(お書きになった新作能申し合わせで意見する様、能公演での解説・鼎談、選者としての姿、連歌の挙句に臨む様…)は、冴えていてパワフル。

それでいながら、日常でお弟子さんや監督とお話しする時や在宅中の服装等からうかがえる分け隔てなくフランクな様子、若手を励ます様子からは、一種の親しみの様なものを抱かせられるから不思議。

80歳を超えて能を舞うのは辞めたとの紹介、足が痛むとのことで薬を飲みながらの生活、文学賞の選者からの引退等、率直に言えば老いが覗く一方で、お笑いから人情の最先端を知り、「良い顔している」と喜びながら昆虫の図鑑をめくるお姿は、好奇心が溢れんばかり。

と、その裏に、昆虫は滅びの様子を見せてくれているのだ、親しい者を見送って自分の過去が無くなる中で昆虫は過去の縁、と、長い人生で培われたものの見方・虚無的なものが存在している。

多面体的というか複層的というか渾然一体というか、色々な様が伺えて、しかし、それは乱雑ではなく何か芯が通っていて、若々しくもあるけれど、そこに熟練というか人生の積み重ねがあるのかなと。

今は精錬されて物の見方や信念といったものに姿を変えたものの中には、戦争下の炎の熱風や教員生活での子どもへの愛情、結婚相手の思想に染まる様、安保闘争・ベトナム反戦運動等、文化芸能と一括りに呼ぶものよりもある種生々しい時代の軌跡があったのだろうなと。

長い年月・時代に磨かれたある種の若々しさと老練さ、力みのない力強さ、そういった意図して作ることはできないだろうお姿に静かに感銘を受ける、映画を通して間接的に知ったそのお姿にただ敬愛の念を抱く、そんな鑑賞時間だった。


⚫︎その他

・死と生
公式HPのある初日舞台挨拶の中に「深刻に死ぬことを考えるのではなく、深刻に生きることを考える」とのお言葉があった。
ご本人にとって身近な存在とされている昆虫でいえば、蝉は大きく鳴いて飛んで生を謳歌するが、飛べなくなれば羽をばたつかせ潔く死ぬ。そんな、生の延長にある死が良いと。
長年生きれば時代時代は通過するものだとわかる、長く生きることと。

映画を観終われば、その言葉がどれだけ実経験に裏打ちされたものなのか、実感できる。

大して時を重ねてもいないのに、身近な人の老いや不確かな時代の流れから、現実的な面を主として死とはどんなものだろうという思いに囚われていた自分を、すこし突き放したくなった。


映画の中に能関連の場面が幾つかあり、演能前後の楽屋や申し合わせの様子が垣間見えるのも魅力的だった。
実際に能公演を観客席で見るのとは違う、近くからの(ズームした)映像では、面がより明らかに見えて、何となく表情を変える様の一端が素人なりに少しはうかがえたように思う。

「利休」で利休の霊がつけている面は、目には怒りを湛えて口元は悲しみに歪み横顔は大きく作られた鼻から意志の強そうな印象があり、少しの顔の動きで上から、下から、横から、と視点が変わると、受け取る表情が変わるなぁとカメラだからこそのドアップで何となく思った。

利休の霊の面の少し頬骨が出た感じ(頬がこけた感じ)は、痩男だと明らかにわかるけれど、下向きの時の影の強く落ちる感じと上向の時の視線の強さのギャップがある。

1枚でこれだけ表情が変わる、そんな考えられた面が作られたこともすごければ、(日常生活の中では)少し(であろう)の動きで表情が変わってしまうことを計算して舞台をつとめている能楽師の方もすごい。

和歌の世界もそうだけれども、こういった奥深さをのぞく入り口でもあった。

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