仙台③ : 食べて飲んだ最終日(少しだけ東日本大震災の話) | 旅行記
仙台旅行もいよいよ最終日。
チェックアウトをして、お目当てのお店に向かいます。時間はお昼、まだ食べていない仙台名物と言えば!!!
牛タンを食べに来た「旨味太助」
開店20分前にも関わらず、長蛇の列が。
昭和23年創業、ノスタルジックな店内と美味しい牛タンの定食が人気のお店です。
開店から2~3巡目、並んだ時間はおよそ40分ほど。
「仙台なんて、無限に牛タンの店あるじゃん」
と言われそうなのですが、こちらのお店は本当の牛タンの美味しさを教えてくれた、特別なお店で。
コロナよりも前、今から6年ほど昔に訪れて食べた牛タンが、めちゃくちゃ美味しかったんです。なので、寒いなら並んででも、絶対にもう1回食べたくて……!(とても寒い)
やっと入れた店内、通されたのはカウンター。
職人さんが炭火で焼いている様子がよく見えました。
牛タンのメニューは定食しかなく(あとは鰻)、牛タンの枚数を聞かれます。4枚、5枚、6枚から選ぶとなれば、まあ、6枚で!!!
辛い辛い南蛮漬けは、お願いすると付けてくれます。
常に焼かれている目の前の網から、ささっと6枚取られて目の前へ。
たっぷり量のあるテールスープと麦ご飯、野菜漬けが添えられて。
絶品……!
牛タンはしっかりとした歯ごたえの先で、旨みが一気に口の中に広がります。こだわりのある塩味は、優しくお肉の味を引き立ててごはんにぴったり。テールスープにはごろごろと大きな柔らかいお肉が入っており、シャキシャキのネギと合います。毎日食べたい。東京にも出店してほしい。
並んででも食べたい、絶対に後悔しない、仙台だからこそ食べられる牛タンでした。
最後に仙台っぽいものを「かき小屋ほや小屋 まぼ屋」
牛タンを食べ終え、仙台駅へ。
お土産を買ったりカフェに寄ったりぶらぶらしたり、そんな中でまた雪が降り始めました。寒い。仙台って、雪少ないんじゃないの……?
早めに帰りたいなということで、おやつの時間から早めの夕食を。
仙台駅すぐ、ヨドバシカメラの1階にある飲兵衛横丁(すごいネーミング)、その一角にありましたこちら。
仙台といったら牛タン、牡蠣、そしてホヤ!
旬ではないといえど、せっかく来たからには食べたいな〜ということで、いろんなホヤ料理が食べられるお店にきました。いろんなホヤ料理……?
すごい見た目〜!!!
もともとの赤くゴツゴツしたビジュアルも、なんだか食べ物と呼ぶには怪しいものなのですが、捌かれたこのクニュクニュした感じのゼリー状の身……。そもそも、ホヤってなに? 貝??
ホヤ属……?
貝でも魚でも植物でもなく、ホヤはホヤってこと?
そうです、ホヤはホヤ。しかもなんと、脳神経、心臓、消化器官を持つ、れっきとした動物らしい。ヒトに近いと言われましても…な見た目ですが、脊椎動物の原点となる「原索動物」と呼ばれる生物なんだって。へぇ〜……。
味はすごく独特で、海をまるごと食べているかのような強い塩の味が鼻を抜けるのですが、甘いようでいて舌先は苦く、旨味が強い気もしますが塩気も強い。新鮮でないとすぐに臭みが出るらしい。日本酒に合うつまみという感じですが、苦手な人は多いかも。
あんまりお目にかかれない「ホヤ料理」をいただきました。ほやほやほや卵(言いにくい)は、半熟の煮卵がホヤに包まれて甘辛く味付けされたもの。どうやって作るんだ……? 卵の味と相まって、とても食べやすい一品でした。
東北のさまざまな日本酒を楽しみながら、牡蠣やホヤを堪能しました。美味しかった!
旅行はこちらでおしまい。
2泊3日、楽しい弾丸夫婦旅行でした。
こちらの公開がちょうど3/11ということもあり、東日本大震災から13年ということで少しだけあの頃のお話をしようと思います。
少しだけ、東日本大震災のこと
あの日、私は東北から遠く離れた地にいました。
中学生の私がテレビで見たのは、止まない火災、崩れ落ちたたくさんの家屋、濁流に飲み込まれる車や家。この世の光景とは思えなかったです。
それから数年経って、高校2年の夏に私は仙台へボランティアへ行きました。
仙台駅に降り立ったとき、その広く綺麗な駅舎や周辺、たくさんのお店が並ぶ活気溢れる商店街を見ました。たった数年でこんなにも復興するなんて。ボランティアなんていらなかったんじゃないか。学校の仲間とはしゃぎながらそう思っていた矢先、バスの窓に映ったのは、あたり一面が更地になりぽつぽつと家の残骸が残っている沿岸でした。
あんなに騒いでいたのに誰ひとり言葉が出ず、呆気にとられて外を見ていたのを覚えています。とにかく、駅周辺との落差がすごかった。地元の方のお話を聞きましたが、その方がつらい体験を笑顔で話すので、私たちも泣くまいと必死でした。
1日目はお話を聞いて、沿岸の家々の跡地や避難所をまわり、就寝しました。
2日目は炎天下の中、畑だった広大な場所で瓦礫をひとつひとつ手で除去し、その後開催されていた七夕祭りをまわって家路につきました。
田舎から来た20人ほどの高校生、たった1泊2日でできることなんて、なにもありませんでした。瓦礫は探せば探すほどに出てきて、私たちは休憩を返上して除去作業をしても終えられませんでした。
日本は地震大国です。
島国なので津波にも弱い。
今年の1月にも北陸で大きな地震がありました。私たちが生きている中で、あと何度こんな思いをするのだろう。
あの日、私にできることはなかった。
今だって、できないことのほうが多い。
たくさんの誰かを、この手で一気に助けることはできない。できるのはきっと、知ろうとし続けることだけだ。なにができるか考え、微力でも続けることだ。そして可能な限り、こうして伝えることだ。それが1人の人間が長期でできることだと、そう思っています。
地震で亡くなられた方へ、改めてご冥福をお祈りします。
地震を生き抜いた方へ。生きていてくれてありがとう。生きていてよかったと思える世界に、一緒にしましょうね。
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