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闇という静寂のなかで


今日はちょっと、note書きたかったけれど、今は書ける氣分じゃない。

それでも、歩くよりどんなに遅くても走っているほうが早いと教えてもらったから、まずはつづけることから。


なんか、こころが闇(病み)のなか。

でも闇は音が閉ざされた世界。

つまり静寂のなか。

それは瞑想でもある。

迷走かもしれない。

Life Discovery Seminarで“人生”を見つけたつぎは、Diamond Discovery Seminarで“ダイヤモンド”を見つける旅。

開けなくていいなら開けたくなかった、とんでもないフタを開けてしまったような氣がする。

“本音を生きたい”って、見つけてしまったんだよ。

太陽の陰に隠れてた、月にも今光が当たりはじめてる。

そんな生き方したら、わたし、嫌われ役になる、ひとりになっちゃうよ。


“こうしたらよかったのに”に反応するのは、じぶんがじぶんを、そうやって責めているからなんだね。

“攻撃されてる”も“頭から否定してる”も。

わたしのなかからの声。

わかちあいのはずだったのに、めんどくさくて、なおざりになってた。

でも、一番はじぶんがじぶんを責めてる。

そっくりそのまま、わたしの目の前で起きたことが、それを見せてくれている。

開けなきゃよかった。

でも、もう元には戻らないよ。


ほんとうは、いっしょにでかけたくなかった。

ほんとうは、ひとりで走りに行きたかった。

ほんとうは、いっしょにでかけるのが嫌い。

ほんとうは、いっしょにいたくない。

なのに、わたしは、ひとを喜ばせるためにじぶんを犠牲にした。

じぶんの時間を犠牲にした。

どうしてじぶんに我慢をさせて、だれかを喜ばせないといけないの?

ほんと、じぶんを犠牲にしてひとを喜ばせることは、まわりまわって、だれも幸せにしないんだな。

どんなに相手を不機嫌にさせたとしても、どんなことを言われたとしても、じぶんのごきげんはじぶんで握らにゃならん。

“相手を怒らせたから、わたしが悪い”を引き受けていたことにも氣づいた。

じぶんを犠牲にしたことで、じぶんが怒っている、悲しんでいるなら、その責任もじぶんでちゃんととらにゃいかん。

「ごめんなさい」って。

じぶんを犠牲にした、なんてじぶんのことを被害者にさせてしまって。

じぶんが“被害者”になった瞬間から、わたしはじぶんのごきげんを諦めてしまったことに、ごめんなさい。

時間をともにしてくれたひと、わたしにさえ、“無駄な時間”と思わせてしまったこと。

“被害者”になることで、じぶんには力がないことを信じさせてしまったこと。

じぶんにちゃんと「ごめんなさい」が言えなくて、わたしは目の前にいるあなたのせいにして、あなたを責めた。

あなたからの「ごめんなさい」を聞くために。

ほんとうは、わたしがわたしに「ごめんなさい」を言えていたらよかったのに。

だから、あなたは“攻撃されている”と思ったし、“頭から否定されている”と思ったんだね。

たしかに、わたしがしていたことは、そうだったんだ。

なのにわたしはそれを認めなかった。

認めるゆとりすらなかった。

あなたが見せてくれたことを、あなたなんかに言われたくないと、拒んだ。

わたしのこころを映す、その鏡の扉を、バタンと閉めた。

そうしてわたしは、音のない、光のない、闇の世界に堕ちていった。



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